cookie (3)

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「次郎さん、次郎さん」
 高い空に渡る風も清々しい、その日曜日の朝——。

 義姉の呼ぶ声に、島次郎は母屋の玄関で靴ひもを結び直す手を止めた。ん?なーに、テレサ?
 次郎は真田志郎の科学局に行こうとしているところだった。日曜日だけのアルバイトである。

 白いエプロンを着けたテレサが、ダイニングから玄関へ出て来た。 
「お帰りになるとき、買って来て欲しいものがあるんですけど」
「いいよ?なに?」
「……クッキーの型を」
「クッキーの?」
 思わず頬に笑みが浮かぶ。「そっか、また練習?」
「はい」

 兄貴が、3日後に帰って来る。先月の休暇に、『次は絶対、美味しくて、サクサクで、見た目も良いのを作れるようになります』って、約束してたもんな、テレサ。

 大介が先月の休みに作ってみせたバタークッキーがことのほか美味しくて、テレサはまたしてもへこんでいたのだ…… だが、最近やっと、次郎も「まあまあかな…」と頷けるようなものを作れるようになって来た。
 どういうわけだか堅焼きせんべいのようになってしまうのが理解できないのだが(笑)、抜き型を使って形を整えたらもうちょっとマシになるかもね…うん。
 
「ネコとか、魚とか、そういう形のがいいかな?」
「うふふっ」
 おまかせしますわ。次郎さん、素敵な小物を見つけるのが、とても上手なのですもの。

 ホントは、そんな女の子ばっかりのクッキング小物の店なんかに入るのは自分だって気恥ずかしい。だが、テレサの喜ぶ顔見たさについ果敢に雑貨店に入ってしまう次郎である。結局はクソ兄貴に食べさせるクッキーなのだが、練習で焼いたものは大体俺にくれるもんな。それに、味はともかく、あーだこーだと言いながらテレサと2人でおやつに食べることだってある……そう思えば、それほど悪い気はしない。その上、こうして彼女の笑顔を自分が引き出していると思うと、次郎はそれだけで、もう幸せな気分になるのだ。

「よし、任しとけ。…じゃ、行ってくるね」
「いってらっしゃい」

 うっとりするようなテレサの笑顔に見送られて、次郎は玄関を出る。足取りも軽く、真田の科学局へ向かった。
 さあて、今日は何の手伝いかな。また通信回線の整理整頓かな。
 ……チューブの駅ビルでクッキー型を買う時間、あるだろうか。




          *          *          *

 



 その頃、月と地球の中間点<ラグランジェ>に位置する恒久軌道基地には、極東基地副司令・島大介と新人管制官3人が到着していた。
 常駐するスタッフたちが、踵を鳴らして新人たちを連れた島を迎える。

「極東基地副司令に敬礼!!」
「ご苦労」
「…島副司令、ご自身で連絡艇を操縦してらしたんですか?!」
 なにもそんな。我々に報せてくだされば、いくらでも迎えの船を出しましたのに。
 太陽系交通管理局から派遣されている下士官が、連絡艇の操舵席から降りて来た島を見てちょっとおろおろしていた。島は彼に、いいんだいいんだ、やりたかったんだから…と手を振って苦笑い。
 ——たまには船を操縦しないと、腕が腐って落っこっちまう。俺はこれがしたくて、この役目を買って出てるようなもんなんだ。


 ラグランジェ恒久軌道基地には、無人艦の整備用ドックがある。ここでは無人艦が回収してきた圧縮金属をリサイクルし、整備・補修のための資源として活用しているのだった。
 もと空間騎兵隊員だったという野本剛大尉がこの基地の司令官兼整備長であるが、どうやら彼は島とも古い知り合いのようだ。
 竜士が直立不動のまま無言で見ていると、野本は島から受け取った電子プロフィールにさっと目を走らせただけで、データボードをぱたん、と閉じた。

「例のミッションですね、島さん」
「ああ、よろしく頼むよ」
「…承知しました。<日向>3番艦の整備が済んでおります」
 そう言いながら、野本は腰に手を当て、面白そうに3人の新人管制官達を一瞥。

 …なーんか胸くそわりぃ。
 竜士は表情を変えなかったが、そう口の中で呟いた。

 野本剛は見たところ…裏路地で油まみれになって整備に明け暮れるガンコ一徹の整備オヤジ、という風体だった……油染みの浮き出た灰色の作業着は、もう何日も着替えていないのではないかと思うほどヘタレている。よく見れば無精髭にも煤がついていて、差し出されたどす黒い革手袋の右手を握るのも、正直勇気が要るほどだ。
 ガンコオヤジは新人3人を順に見やった。その視線が、竜士をスキャニングするように上から下へと流れる。さあて今度の新人ボウヤはどうかな?とでも言うようで、かなり腹立たしい。

「よし、ついてこい。宇宙服に着替えてから搭乗だ」
 ムッとしていると、野本が自分たちを手招きした。
 島が「行け」というように頷くのを確認し、新人達は型通りに短く敬礼すると、野本についてドック内部に係留されている無人機動艦<日向>に向かった。


                    *


「あの、整備長。自分、無人機動艦って戦闘が主要目的だと思っていました」
 新人のひとり、宗方和真が先に立って歩く整備長・野本の背中にそう声を掛けた。
「“それ”がコイツらの仕事さ、そもそもな」
 整備長は振り向きもせずそう答える。「だが、ゴミ拾いも欠かせない仕事なんだ」
「はあ…」
 宗方、ともう一人…亀川治もそれを聞いて肩をすぼめる。

 竜士は野本の言葉を耳にして、また軽く溜め息を吐いた。ま、掃除ってのは、誰かがやらなくちゃならないことだしな。

  艦尾の昇降用ラッタルを軽快に昇って行く野本について、3人も駆け足で階段を昇った。
 どやどやと<日向>の艦内に踏み込む。

(……!)
「…カメ、ベルトウェイがないぜ」宗方が亀川に小声で言った。
 いきなり面食う。

 通常有人艦内部には、自動歩行通路ベルトウェイが縦横に走っていて、立ち止まっていても人間を目的地に運んでくれるような作りになっている。
 だがこの無人機動艦には、その設備が無かった。代わりに、補修用資材を運ぶための大きなベルトコンベアーが天井を走っている。

「人間工学に基づいた設備は載っていないんだ。通路は資材運搬用の動脈みたいなもんなんだって。…座席とかコンソールパネルもない、って話だぜ」
「さすが物知りだな、時田」
 宗方と亀川にそう言った竜士を、野本が振り返る。
「いえ」
「学年トップだったんすよ、こいつは」
「うるせえムネ、黙れ」
 戯けた宗方に、竜士は小さく唸った。トップだったのに配属がここ。それがどうしても解せないのは俺自身なんだ。
 
 しかも、知識があるからこそ、不安にもなる。確か、給排水循環設備もない、と聞いていた。
 じゃあ、トイレもないのか…
 俺らが乗っている間、水はどうするんだろう?

 その疑問の答えは、野本整備長が通路の一画にある工具の収納庫から取り出したバックパックにすべて入っていた。
 大きな背嚢の中には、飲料水、携帯用糧食、酸素ボンベから大小様々な大きさの固定用フック、携帯トイレ、そして生命維持装置に至るまでありとあらゆるものが詰まっていた。まるで、これからエベレストの頂上へアタックさせられるのではないかと思うほどである。
 野本は中身をざっと説明すると、人数分の背嚢をドサリドサリと床に降ろした。…それぞれ軽く70〜80キロはありそうだ。

(……ちょっと待てよ…まさか、これ背負って動けって言うのか)

 にわかに心配顔になった新人達に、野本はニヤリとして言った。
「心配するな。こいつが必要になるのは、人工重力の解除された場所だ。まだ背負う必要はない」
「は…はあ」
 ……人工重力の解除された場所…… つまり、この船が宇宙へ出たとき、ということである。

 軍艦も、乗り心地と言う面では決して良いとは言えない代物だ。しかし、「人が乗るようには出来ていない船」の乗り心地って… 一体…。

 3人は無言で顔を見合わせた。


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