Original Story 「DISTANCE」(7)



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(……島さん……。今,何をしているの?……まだお仕事中ですか…)

 部屋の灯りを点けると、月が見えない。だからテレサは部屋の明かりを点けずにいた。


 カレンダーによると今晩は「十六夜」だった。満月の翌晩は、過去にこの衛星が受けた戦火の傷痕が、地上からもよりくっきりと見える。クレーターの形がまるで変わっていた…太古には、この国の人々はそれを「月でうさぎが餅つきをしている」ように見立てたと言うが、今では月の明度はその頃の半分でしかなく、全面が黒っぽい大きなクレーターに飲まれたような姿であった。それでも、テレサはこの月明かりを美しいと感じた……なんとなれば。空に衛星が見えること、暗い宇宙が見えること、そしてその中に時折煌めく星々が見えること…それ自体が古郷の星ではあり得ない、神秘的な情景だったからだ。

 草色のカーペットを敷き詰めた一階のリビングで、テレサは窓のカーテンを開け、床にぺたりと座って月を眺めていた。暗い空を見上げていると、愛しい夫の顔が浮かんでくる。思考の糸はさらに時空を溯って伸び…テレサの胸を詰まらせた。



 宇宙……漆黒の、冷たい空間。マイナス273.15℃の絶対零度の闇。
 …その中を、命がけで愛する人を追った数日間。



 それまで地底深くに在ったテレザリアムで、初めて飛び出した宇宙は、脅威に満ちていた。いつ死んでも可笑しくないという状況の中、命ぎりぎりの恋をした……
 その愛しい相手は今、望めば会うことの出来る場所にいる。同じこの星の上にいて、その距離もたったの数十キロといったところなのだ。

(……それなのになぜ…)
 なぜ、こんなに寂しいのだろう……?
 ひとりでに、両手が胸の前で組まれていた。
 座り込んだまま、蒼く光る月を見上げたまま——
 かつてその祈りによって、恐るべきエネルギーを迸らせた女神の姿が甦る。



 ぱんぱん。…ぱんぱん。

「…えっ」
 月明かりの下で、何かが動いた。
 窓を誰かが叩いている……
「次郎さん?」
 一階のリビングの窓を、外から次郎が叩いていた。

 

                  *


「何してたの?お月見?」
 時期的には間違いじゃないよな。そう思いながら、次郎は笑った。玄関を開けてもらい、改めてリビングに上がる。明かりを点けたので、カーテンは閉めた。
「お月見…。そうかも知れないわ」
 テレサも笑った。十五夜、じゃないし、お団子もないけれど。

「どうしたの」「あのさ」
 次の瞬間、二人は同時にそう言っていた。
「あはっ」
 そして,同時に笑い出す。次郎は少しほっとした。兄貴のコーヒーの香りなんか嗅いだせいで、どんなに義姉が落ち込んでいるだろう、と心配していたからだ。

「……元気そうでよかった」
「どうして…?次郎さんこそ、今日は遅かったのね」
 ……兄ちゃんに,会いに行ってたから。
 そう言おうとして、思いとどまる。
「……俺だって、たまにはぶらぶらしたい時もあるさ」
 うふふ、と笑い、テレサはキッチンへ立つと冷蔵庫から飲み物を出して持って来てくれた。ビン入りのオレンヂーナ。炭酸の入ったオレンジジュースで、歴史の古いユーロ自治州の名産ドリンクだ。
「やっほー、さんきゅ」
 次郎はオレンヂーナの蓋をポンと開け、一口飲んでから持って来た写真をダイニングテーブルの上に広げ始めた。
「……次郎さん……これ」
「戦争の間、俺が持ってた家族の写真なんだ。テレサにあげる。兄貴の写真、あんまり持ってないだろ?」

 テレサは頷きながら、座った次郎の横から写真に見入る。
 でも…写真なら、持っている。
 結婚式の時に撮ってもらったものが、アルバムにたくさん。けれど、次郎が持って来た写真に写っていたのは、あの緑色の矢印を胸にあしらった、ヤマト時代の制服の彼だった。
「……兄貴、若いんだか老けてんだかわかんねえな〜。これ、今の俺と同じ年だぜ?」…少なくともイマドキの18歳、じゃないな。そう付け加え、次郎は笑った。


 テレサは震える指で、その中の一枚を取り上げる。輝くばかりの笑顔で最敬礼する、愛しいヤマトの航海長がこちらを見つめている——
 次郎の声が耳に入らなくなっていた。
「………島さん」
 見る間に写真の中の彼が涙に滲んで見えなくなった。記憶の奔流が、テレサの感情を支配してしまった。途端に顔を両手で覆って泣き出してしまった義姉に、次郎は狼狽する。
「テッ…テレサ!?」

 ああ、まさか、なんてこった!
 大失敗は,俺の方だ。母さんのコーヒーより酷いじゃないか〜……!!


「ごめん!!そんな、あの…」
 何も、泣かなくても。
 慌てて立ち上がる。椅子に座らせてやろうとテレサの肩に手をかけると、やにわに義姉が自分に身体を預けて来た。「えっ、ちょっ……」


 なんでこうなる!?
 頭がまっ白になった。何だ,この状況!!
 だから、これは…兄貴の仕事で!…俺は………
 テレサは、次郎の胸に顔を押し付け、肩を震わせてすすり泣いているのだった。
 ヤマト時代の兄貴の写真に、テレサがこんな過剰反応を示すとは予想外だった。しかし考えてみれば……テレサはこの頃の兄貴しか知らないまま、永い眠りについていたのだ。
 2・3度躊躇って、テレサの背中に両手を回す。女の子を抱きしめる、というのは次郎も経験がないわけではない。すぐ家に帰りたがる、門限の厳しい彼氏なんかご免だわ、と振られた相手にだって、こんなことはしょっちゅうしていた。けど、相手が相手だろ、やばいだろ……

「……テレサ」
 大義名分は、と回らない頭を無理矢理回転させようとする…だが、
「島さん」とテレサが涙声で呟いた途端、次郎ははっと我に返った。


(そっか……) 
 唐突に。
 …妙に冷静になれた。


 テレサの背に回した両腕に、そっと力を込め…華奢な身体を抱きしめる。(……細い…)

「……俺は兄貴じゃないぞ?」
 次郎は義姉の耳元でそう囁いた。…自分は、男として見てもらえていない。そんな当たり前のことが、唐突に理解できたからだった。

 テレサが、洟をすすって顔を上げた。
「…ごめんなさいね、…次郎さん…」
 至近距離で見るその美しい瞳はまるで宝石みたいだ。涙に濡れた睫毛が、大きな瞳を取り囲む砕けたダイアモンドのようだった。胸が大きくどきんと音を立てたと思った。だがそれは、自分にしか聞こえなかったようだ。次郎はその場しのぎにぎこちなく笑ってみせる。
「写真なんか見たら、かえって寂しくなっちゃった?」
「…ごめんなさい、私…」
「駄目。放してやらない」
 つい甘えてその胸を借りたことを、テレサは謝りながら離れようとした。けれど、次郎は笑いながらその身体を抱きしめ続ける。耳元で囁くと、立ちのぼる甘い香り…
「お…俺さ、今日兄貴に会いに行ったんだ。もっと休暇、取れって言って来た……姉さんのために」
「えっ」
「…でないと、俺が奪っちゃうぞ、って脅かして来た」
「次郎さん?」

 ひょいとテレサの顔を見ると、義姉は半ば本気で慌てたような顔をしている。
「……あはははは…!!」


 テレサ、なんて可愛いんだろう!!

 素直にそう思えた。姉として、兄貴の…大事な大事な恋人として。


 しかし時刻は午後22時40分、この離れには姉と自分のふたりだけ。
 いやーヤバいなー、この状況。禁断の愛って奴?これがホントの若いツバメ…うひょー…
 などと考え、さらに次郎は声を立てて笑う。
「次郎さんってば」
 笑いながら、なおも抱きしめた腕を放そうとしない次郎に、テレサも微笑んだ。
 いたずらを…しているのね?
「…もう……大人をからかわないで」
「あ、言ったな……子ども扱いすんなよ」
「うふふ……」
 しかし、正直。テレサ自身…次郎に申し訳ないとは思いつつ、大介と骨格の似た彼の胸に身体を預けているのは心地よかった。抱きしめられるまま、テレサも再び次郎の胸に寄り掛かる。



 次郎さん、とっても優しい……
 ——なんだか、すごく…安心する…



 その時である。


 リビングの隅にあるヴィジュアルホンの着信音が突然鳴った。
 オープンにしてある回線が、ひとりでに繋がる。ヴィジュアルホンはいわゆるテレビ電話だから、相手からは即時この部屋の状況が見渡せる……この家に、しかもこの時間に電話をかけて来る人間なぞ、一人しかいない。



 ……げ。



 ヴィジュアルホンのモニタには、果たして兄の大介が映っており……大介も同時に、「げ」という顔をしていた。
<じ…次郎…っ?>
 なんでお前が! こんな時間に……こんなとこにっ…、しかも何してっ…!?

 罵声が、音になって飛びかかって来る前に、次郎は好戦的にニヤッと笑い、モニタに向かって言っていた。
「だから言っただろ、休暇をもっと取ってやらないと、俺がテレサを盗っちゃうぞ、って!!」
「じ、次郎さんったら」
 今度こそ本当に慌てるテレサをぽいっと腕から放し、次郎はモニタに向かって右手を突き出した。挑戦的に、サムズ・アップ。
 身を翻してバハハーイ、とテレサに手を振り、とっとと部屋を出る……

「じゃなっ!」
<次郎っ、待て!!こらっ、お前…>


 追いかけて来る兄の声なんぞ知ったことか。
 あはははっ、と笑いながら、次郎は離れを飛び出した。背後で、テレサがしどろもどろに説明している声が聞こえる。



「ははは……は…」
 思ったより、吸い込んだ空気は冷たい。
 十六夜の月が、空々しかった。

 兄貴め、ざまあみろ。
 仕事人間やめて、俺を殴りに戻って来い。テレサに会いに……大慌てで帰って来ればいいんだ。鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔しやがって。
「はは……」



 ——畜生、これが失恋、つーのかな。それも超特大級の、大失恋だ。



 軽い足取りで母屋に向かいながら……次郎は月に笑った。

 

 

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