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「次郎、どうしたんだ…!?」
「……よう」
次郎はズボンのポケットから手も出さず、慇懃に挨拶した。
待合室の一つに通され、ジュースを出されて数分。カーキ色の司令官の上着を羽織った兄が現れた。何人もの官吏に敬礼され、それに軽く答礼しながらやって来る兄の様子は、明らかに自宅で見る姿とは違う。
(ちぇっ…、さすがに偉そうだな)
踵を鳴らして敬礼する、自分よりずっと年長の兵士たちを見て、次郎はちょっとドキリとする。ああ、さがっていい、と彼らに命じ、兄は兵士たちを送り出すと待合室のオートドアを内側から閉めた。
「馬鹿だなあ、事前に連絡くれれば良かったんだ。…まあもっとも、定時の通信タイム以外は無理だったかな…」
「…融通が利かねえ基地だな」
「無茶言うな、機密がいっぱいつまってるんだぞ。俺が出入りするのだって一苦労なんだ。まあ、副司令の家族の顔くらい覚えておけ、ってゲートの連中には言っておくよ」
あはは、しかし相変わらずの無茶ぶりだな、と兄は屈託なく笑った。
外からの連絡が一切遮断された状態で稼働するこの基地内では、内部からの通信も定時の通信専用時間帯以外は不可能なのだった。高性能のハイパーウェブ通信を利用した無人機動艦隊の管制には、余計な電磁波や電波の発生はご法度だからである。
「それにしても突然、どうしたんだ?」
副司令はミッション遂行中だと言った門衛の言葉を思い出し、次郎は意を決して切り出した。
「忙しいだろうから。短く切り上げるつもりだけど。…これ、見ろよ」
差し出したのは、ルーズリーフに書き留めたテレサの話のメモだった。
受け取って、さっとそれに目を通した兄の顔色が変わる。
「…これは…」
「姉さんから聞いた。聞いたことを、俺が書き留めたんだ」
姉さん、か。
彼女の名前を口にするのは憚られた。もちろん、口に出してもどうということはない……対外的には義姉は北欧出身の軍属技術者、テレサ・トリニティという名を持っていたからだ。だが、次郎は敢えて義姉の名を口にはしなかった。
兄は厳しい表情で何度かメモを読み返す。
——父の名はハール、テレザート・バラス・キャルヴの軍事科学局長官。母の名はフリッカ、キャルヴを代表する高名な心理学者。テレサは彼らのひとり娘で、生まれながらに強力なサイコキネシスとESPを持っていた。彼女はテレザート人類の6歳にあたる歳に父によってテレザリアムに幽閉された。それは、彼女の能力を戦力として欲する軍隊の兵器開発部から身を隠すためだった。そして彼女が17の歳、バラス・キャルヴの対立国家、フリーヴズ・キャルヴとの二国間戦争が勃発。テレザート世界の平和を願った祈りのために、彼女自身がその故郷をすべて滅亡させてしまった事実……、白色彗星との関り。そして、地球を救い身を滅ぼし、遠い星で目覚めたこと——
「……それは、俺が自分で頭の中を整理するのに書いたものだから、当然端折ってる。けど後ろ半分は、兄貴の方がよく知ってるだろ」
兄は次郎の顔をまじまじと見つめた。
「……これを…彼女がお前に話したのか」
「うん。というか、…聞き出した」
「聞き出した?」
憮然とする兄を制し、次郎は言った。
「ずっと話したがってたんだよ、あの人は。誰かに聞いて欲しいって、ずっと思ってたんだ」
「…そんな」なんでそんなことがわかるんだ…、次郎、お前に?
訊いてはいけないことなのだと、ずっと思っていた。だから大介はこれまで何も、テレサに過去の話を訊いたりしなかったのだ。
「それから……雪さんとこの、守のことだけど」
「守?」
ついで次郎は、雪とその息子、守のことを話した。母の小枝子がまるで守を孫のように可愛がる反面、テレサは守に近よることもしない。それでもテレサは心の内奥では子どもを持つことを痛いくらい切望している。叶わぬことと知りながら、地球人としての幸せをつかみたいと思い詰め。その象徴として、守の姿を見つめている……
「兄貴。……ここの勤務…もうちょっとなんとかならないの?」
「もうちょっとって」
「休暇をもっと、取ってやれよ。…せめて、あの人が…こういう話、兄貴に出来る程度の時間を、ゆっくり取って上げて欲しいんだよ。ほら…、口べただろ、…あの人って」
それに——泣いてるんだよ。
それを俺は、慰めてやれないんだよ。俺じゃ駄目なんだ。
——兄貴にしか、できないことなんだよ……
大介は、黙ったまま目を逸らし…弟が悔しそうにそう言うのを聞いていた。
(長期の休暇か。…考えてないわけじゃないんだ。でも)
まだそれは、事実上不可能だった。
「兄貴」
大介が大きく溜め息をつき、待合室の窓の外に視線を投げたのを感じ、次郎は顔を上げて憤然とした。
兄貴、あんたの大事なのは一体何なんだ。
待合室の窓は大きく、青く広がる海底の様子がまるで美しいホログラムハイビジョンの環境映像のようだ。時折、回遊魚の群れが銀色の腹を見せて通り過ぎる。それが、まるでゆらめいて流れる無数の流星を思わせた。基地内に長期滞在する者の心理に心地よく働きかけるよう、海底が仄明るくライトアップされているのだ。だが、今の次郎にはその心和む光景すら目に入らない。思案顔の兄が、何かに躊躇って返事をせずにいるのが、次郎には至極残酷なことに思えた。
「兄貴…」
「……勤務体制は変えられない」
「兄貴…!」
「休暇のことは考えてる。まとめて取れるように調整してみる。でも…今すぐは」
「…バカ野郎!」
思わず、怒鳴っていた。「地球を守るって言いながら、大事にしてる人ひとりも守れないんなら、くだらない軍隊なんか辞めちまえ!!」
兄が、ひどく傷ついたような顔をした。
「じ…次郎」
「邪魔したなっ」
「おい!」
引き止めようとする兄の声を振り切って、次郎は廊下へ飛び出す。
何事かと歩み寄る衛兵の手を叩き払い、次郎は先ほど門衛に案内されてやってきた通路の向こうへ走ろうとした。
「お待ちください!」
途端に、3人ばかりの衛兵がわらわらと走り寄ってくる。
「放せよ…放せってば!!」
「…放してやってくれ。連絡ゲートまで送ってやって欲しい」
兄の声が後ろから聞こえた。衛兵たちが次郎を押さえつけていた手を離す……それを乱暴に払いのけ、次郎は振り返ってキッと兄を睨みつけた。
兄は、ひどく申し訳無さそうな顔をしていたが、目を伏せて俯いたその口元は固く結ばれており……次郎に言ったことを翻すつもりなどないことを窺わせた。
(バカ兄貴!)
もう一度心の中で罵倒する。
堅気な軍人としての、兄の任務への忠誠心は理解できないことではないし、あの気質がこれまでも今も、自分たちを実質護って来た事を思えば、兄を責めることなど出来るはずもなかった。だが、次郎の心にはテレサの大粒の涙を浮かべた顔が浮かんでは消える……
あの人の心は、誰が守るんだ。兄貴は、軍人として存在する以前に…あの人の夫なんじゃないのかよ。
「気をつけて帰れよ」
次郎は返事をしなかった。
兄にぷいと背を向け、次郎は衛兵たちに促されるまま、基地を後にする——
(………次郎…)
我知らず、溜め息が漏れた。
島は、22時までに月周回軌道上から金星へと出立させなくてはならない巡洋艦<ひゅうが>15隻の自律航法システムの最終チェックに戻っていた。
CDC室内に満ちた、コンソールパネルの無数の画面から発せられるパステルグリーンやL.E.Dブルーの光。通信衛星からのタキオンレーザー変調波が打ち出すモールス様の青色ランプの明滅が、深海に発生する発光プランクトンの群れを思わせる。
CDCに常時詰めている6名の管制官が、<ひゅうが>各艦へ音声コマンドを送っていた。
<巡洋艦ひゅうが1番艦、アルゴノーツ作動>
<…アルゴノーツ最終チェック完了>
<方位左45転進>
<方位左45>
<続いて2番艦アルゴノーツ連動、方位左45>
<…連動、3番艦、方位左45転進……>
15隻の巡洋艦がレーダーパネル上で優雅に左45度へ艦首を回頭させるのを、吉崎とともに見守る。金星への出発時刻に合わせ、各艦は波動エンジンの回転を上げ始めた。
<プロミネンスシールド最終チェック急げ>
<プロミネンスシールド、作動確認願います>
<副司令、5番と11番…調整に2分下さい>
管制官の一人が、島を振り返った。
太陽風やその輻射熱、水平磁場などの影響から艦艇を護るシールドの調整が、まだ充分でないようだった。島は彼に頷いて見せ、残される35隻の待機陣形を変動させるため別のコンソールパネルに向かう。
しかし、雑念を払わねば…とむきになるほど、見落としていることが後から後から出て来るようで、島はいつになく苛立つ。旗艦<昇竜>の<アルゴノーツ>システムが返答しない。…チっと舌打ちした。
「…副司令?弟さんが面会にいらしてたんですってね」
コンソールパネルに向かって自らも機器を操作していた吉崎が島に声をかける。彼の口元には、火のついていない煙草がくわえられていた。
CDC内は当然ながら禁煙だ。喫煙しない島には理解できないことだが、そんなに口寂しいならおしゃぶりでもくわえていりゃいいのに、と考え「ふふっ」と苦笑する。
吉崎は島よりも幾分年長だったが、彼の感性は島よりずっと少年らしさを残している。彗星戦での負傷の傷痕が残るその顔は、彼をその実年齢よりもずっと老けて見せていたが、吉崎が顔の傷痕をそのまま残しているのは、単に部下に対して虚勢を張るためなのだ。傷は男の勲章…そんな吉崎の古臭い持論を、島は憎からず思う。ただ、自分だったら顔の傷痕をそのままにしたりはしないだろう。整形医療の技術は素晴らしい進歩を遂げているから、ほぼどんな傷痕でも望めば奇麗に消すことが可能だ。第一、“島大介”には顔の傷なんぞ似合わない。…実際は、島の身体には吉崎よりもずっとたくさんの傷痕があるのだったが。
吉崎は、島が先ほど海底基地連絡通路にあるアクセス・チェンバー(面会用コンパートメント)まで出掛けていたことを早速聞き込んだのだろう。
「せっかく弟さんがいらしてたのに、よろしかったんですか?ひゅうがの最終チェックは私に任せてくだされば」
「…いや、いいんだ」
大した用事じゃなかったようだから。
自分でそう言ってしまってから、島はほんの少し考え込んだ……
……大した用事じゃ…ないのだろうか。
テレサのことは…俺はその程度に思っているんだろうか。いや、そんなことはない、俺は彼女を、大切にして来たつもりだ。
次郎の怒った顔を思い出す。
(あいつ…あんなにムキになって……)
ポケットに手を入れ、先ほど無造作に突っ込んだ、次郎のメモをそっと触った。確かにメモには、自分がこれまで聞いたことのないような、テレサの過去が綴られていた。
なぜテレサが次郎に自分の身の上話などしたのか、島には理解できない。…俺に対してはおそらく、次郎が言うように遠慮しているのかもしれないが、それはそれでかなり問題だ。だとしても…
(次郎には言える、ってことは……次郎には、テレサは……心を開いている…?)
いきなり自分に怒鳴った次郎を、もう一度思い浮かべる。
大事な人一人守れないんなら、くだらない軍隊なんか辞めちまえ!
「…あいつ、…まさか」