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テレサの生体認識コ−ドは軍管轄下の陸軍交通管制局・通称<NAVCOMナヴコム>に地球外生命体として登録されている。彼女が一般道へ出ると同時に、おそらく防衛軍内のどこかでアラートが鳴り、首都圏のすべての交通網が一時的にストップされる仕組みになっているはずだった。
あってはならないことではあるが、万が一テレサが拉致されたような場合にも、このメガロポリスの道路上であれば確実に数分以内の追跡・奪還が可能なよう、安全措置が取られているのだ。
それもすべて…テレサの身の安全を考慮してのことだと、雪も小枝子も、もちろんテレサ自身も分かっている。過去の侵略戦争において収容された暗黒星団帝星の兵士の遺体が、現在も研究目的で技術省に保管されており、そのサンプルの持ち出しが厳重に禁止されているのと扱いは同じだった。異星人を研究対象にしたい不届きな輩はどこにでもいるからである。ただ公にはされていないものの、彼女は現在地球上で唯一、生体反応を示す「生きた」異星人である……それが「ただの遺体のサンプル」とは異なる最大の点だった。
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ただいま〜、の声とともに、次郎が帰ってきた。三和土の履物に気付いたのか、廊下をこちらへ向かう足音が少し速くなる。
「あ、雪さん…いらっしゃい」
お邪魔してます、と雪は会釈した——守がきゃあ、と声を上げる。守は次郎にピアノを弾いてもらうのが大好きなのだ。
「よぉ、守〜」
次郎はにっこり笑って、雪に抱かれた守の、薄茶色のヒヨコのような頭髪をくしゃ、と撫でた。
早かったわね、テストはどうだったの…などなど、母の矢継ぎ早の質問に淡々と答えながら、次郎の目は義姉を探していた。ほぼ毎日、次郎を最初に出迎えるのは決まって美しい義姉のテレサなのだが、今日はその姿が見えない…
だが、テレサが和室との境目の段差に座って柱に寄り掛かっているのを見つけ、ああ…と合点した。心なしか、少しばかり義姉の顔色が悪い。その次郎と目が合って、テレサはようやく口を開いた。「…お帰りなさい、次郎さん」
「…ただいま」
次郎は心配そうな笑顔でそれに応える。
——元気ないな。
…やっぱ、守が来てるからか。
テレサの元気がない理由は、採血のせいだけではない。次郎はそれを知っていた。
——義姉は、自らの身体の事でずっと悩んでいた。そのかつて内包した恐るべき超能力の痕跡。それが及ぼす影響について、深く憂えていたのである……
そのことを次郎が知ったのは、やはり雪と守が来ていた、ある日のことだった。
抱き取った守に大泣きされたあの日の夜。
キッチンで皿を洗っているテレサがひっそり涙を拭いているところを、次郎は目撃してしまった。
「…どしたの、なに泣いてんのさ…?」
赤ん坊に泣かれたくらいで。
義姉が涙もろいのは今に始まった事ではなかったから、次郎は苦笑しながらテレサの後ろに近より、ぽんと背中を叩いた…
「………!」
はっと顔を上げた義姉の頬にあったのは、普段ほろりとこぼす温かな涙ではなかった。その悲痛な表情に、次郎は思わず狼狽える。慌ててエプロンで手を拭い、テレサは洗いかけの皿を放置して、キッチンから出て行ってしまった。
義姉を追って母屋から離れに行った次郎は、計らずも彼女の身の上の、隠された事実を知る事になったのだ。
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「…ねえ、どうしたんだよ」
リビングの照明も点けずに、テレサはカーペットの上に膝を抱えて踞っていた。
顔を膝に押し当てたまま、2・3度首を振る。「…なんでもない」
「なんでもないってことないでしょ。そんな風に泣かれたら気になるでしょうが」
次郎はリビングの照明を点け,テレサの隣に座り込む。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ?」…ったく、テレサってさあ、いつもそうなんだから。わけわかんねえことで謝るなよ。
苦笑していると、義姉がゆっくりと顔を上げた。
「守は人見知りしただけだって。テレサが嫌いなんじゃないんだよ」
「…それは…わかっているわ」
「じゃあなにさ?」
「……私…」
テレサはまた、言い淀んだ。
「ほら、言っちゃえ言っちゃえ。俺が兄貴の代わりに何でも聞いてやるから」
次郎のおどけた言い方に、テレサは思わず微笑み。そしてゆっくり、話し始めた。
「……雪さんが、羨ましいな…って思ったの。…私は…地球人ではないから、皆と同じようには生きられない。それは、わかっているの。でも、ね…」
逡巡、戸惑い。言葉を探しながら、テレサはゆっくり話す。次郎はそれを黙って聞いた。テレサは日々たゆまず、実に様々なことを必死で学ぼうとし、そして吸収して来た。その努力が並大抵ではないことを一番良く知っているのは、この1年ずっとそばで見ていた自分だ。
「お母様も、…うちに…赤ちゃんがいたらいいなって、…そう思ってらっしゃるわ。それなのに…私は」
そこで、また躊躇い口をつぐむテレサに、次郎は問いかけた。
「…テレサ、赤ちゃん欲しいの?」
「えっ」
「だってそういうことだろ?…」
「…………」
頬を赤くして俯く義姉を見ながら、次郎まで赤くなってしまった。「照れるなよー、俺まで恥ずかしくなっちゃうじゃん…」
だがまあ、そういうことなのだろう。次郎はそう合点した。
「参ったなー、いくらなんでもそれはさあ、兄貴に頼むしかねえな。ま、どうせそんなの時間の問題だろ?ねっ」
次郎はそう言って朗らかに笑ったが、テレサは笑わなかった。
「時間の…問題…」
「だろ?なんだー、そんなことで泣くなよー、びっくりするじゃん」
テレサは尚哀しそうな表情で、再び俯く。
そのまま、消え入りそうな声で呟いた……
「生きて…ここに居ることが、まだ私には…幸せ過ぎて夢のようなの。この幸せを壊したくない。…だから、危険を犯すようなことは出来ないって思ってた。…でも、守ちゃん見てると,どうしても……私……」
「なんで子ども産むのが危険なのさ?雪さんとか佐渡先生に止められてるの?…テレサ、どっか病気なの…?」
「…いいえ、そうじゃなくて…」
若年であるが故の屈託のなさが、無遠慮な質問の洪水となって次郎の口をつく。そのおかげで、今まで兄からも雪からも聞けなかった、幾つかの事実を次郎は知る事になったのである——。
テレサは次郎に理解できるよう、ごく簡潔に話した。
自分は滅亡した星・テレザートの生き残りと伝えられているが、そうではない。
「……テレザートは、ガトランティスに潰されたのではないの。私自身が…それよりも前に、あの世界を…滅ぼして。最後に、武器としてあの彗星を止めるために、……爆発させたのよ…」
にわかには信じられない、と半ば呆けたように口を開けて聴き入る次郎に、さらに続ける……
偉大な科学者だった父の事、類い稀な心理学者だった母の事。テレザートの素晴らしい文明都市、自分たち家族に牙をむいたその中央権力。そして、自らの故郷とその文明に対し凄絶な最期を突き付けるに至った、恐るべき反物質の力。——それが、計らずもあの彗星帝国から地球を救う力ともなったのだ。
彼女の持っていた反物質エネルギーの規模を根掘り葉掘り聞き出し、自分の理解できる事例に置き換えてみた瞬間、次郎は正直戦慄した。嘘でも大丈夫だよ、などという気休めは、言えないと分かった。
話しながら、テレサ自身も自分の手を時折見つめていた。白い手が小刻みに震える。…まるで、このことを口にしたら…再びあの力が甦ってしまうのではないかと恐れるように。
「…ごめんなさいね、次郎さん」
あなたが黙って聴いてくれるから。——つい、話してしまったわ。…本当は、誰にも言うつもりは…なかったのだけれど。
反応に困った様子で、次郎の視線だけが宙にさまよっている。
「今の私には、あの恐ろしい力はもうないわ。でも、私の子どもは…どうなるのかしら……?」
その問いに、次郎は目を見開いたが、当然…うまく答えられるはずなどない。
「…ねえ。そういうの全部、兄ちゃんには相談したの…?」
ややあって投げかけられた次郎の問いに、テレサは俯いて首を振った。
「なんでさ…?」
「島さんは…見ているから。滅びた私の故郷を…、そして私の持っていた…恐ろしい力を。……だから、辛過ぎて…改めて言葉になんか…できなかった」
「そんな、だって」
俺に話せて、兄ちゃんに話せないなんて。そんなわけないだろ。
妙な優越感と戸惑いに、次郎は混乱する。
「なんでだよ、話した方がいいよ」次郎の言葉に、テレサは重ねて頭を振った。
父康祐にそっくりな、大介の瞳。小枝子譲りの次郎の髪…、当人たちは気付かない様だが、その立ち居振る舞いや声音にも、親子の絆が現れている。あの呪われた能力が遺伝ではないことくらい、この自分だって知っていた…けれど、それを何が、どのように証明してくれるというのだろう…?私の子どもに、それが受け継がれないという保証が、どこにあるのだろう…?
島さんに話しても、彼にだって、どうすることも出来ないのだ。
この心の痛みや渇きを島さんに話せば、彼をダブルバインドに追い込むことになる。出来ないことを愛する夫に望んで、彼を苦しめたくはなかった。
「いいのよ…。次郎さんが聴いてくれたから」
次郎は目をむく。
俺が聴いたからって…そんなの、…違うだろうがよ?
「…あなたに話せただけで、楽になったもの。…今までは…思い出すことも辛くて…できなかった。…泣くことも…出来なかったんだもの…。聴いてくれて本当にありがとう、次郎さん……」
そう言って、テレサはまたぽろりと大粒の涙をこぼしたのだった。
次郎は思わず、義姉の肩に手をかけそうになる……抱きしめてやりたくとも、そうできないもどかしさに、思わず憤然とした…
(こういう時に兄ちゃんが必要なんじゃないか。…ったく、あのバカ兄貴!ろくに家に帰って来ないんだから!)
* * *
今日もまた、あの日と同様——義姉は守を見つめて、切ない笑みを浮かべている。小さな守の姿は、テレサにとってこの星での“幸せ”の象徴になりつつあったのだ。
この手に、大好きな彼そっくりの、小さな命を抱きしめる……それが叶う幸せを。いつになったら私は、手に出来るのだろう…?
テレサが守をずっと目で追っているのを、次郎も切ない思いで見守った。
今義姉の置かれている状況は、彼女がかつて暮らしていた小さな宮殿での幽閉生活と何ら変わらない。辛さも惨めさも哀しみもすべて押し込めて、彼女は今も、この家の敷地の外へは出られないのだ。
俺があなたのパートナーだったら。
絶対にこのままには…しないのに。
(…………!)
抑えていた想いが、つい内心を支配する。次郎は思わず、顔を赤らめた——
(兄貴のバカ野郎。一ヶ月に一度しかここに帰って来ないなら、俺がテレサを盗っちゃうからな!)