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「あの…島さん?」
母屋から離れの新居に向かう。自分の手を引いて足早に歩く大介にテレサは呼び掛けた。しんと冷えた夜の空気にすこしだけ、耳たぶが痛くなる……二人の白い息が常夜灯に反射して、真っ暗な夜空に橙色の雲をかけていた。
「何か…怒っているの?」
「ん?」
新居の玄関ドアロックを解除しながら大介は返事をする…「なんで?」
「だって」
「どうしてそう思うんだ…?」
怒ってなんかいない。…ただ、ちょっと妬いてただけだ。
「やい…てた…?」
「そんなこと、考えなくたっていいよ」
馬鹿馬鹿しい。家族に…ヤキモチ妬くなんて。
オートドアが閉まるか閉まらないかのうちに、テレサはぐいと引き寄せられ、大介の腕に抱き込まれた。
「あん」
「…テレサ」
身体の芯が痺れるような抱擁と、蕩けるようなキス。室内灯も点けず、そのまま三和土で抱き合う。先刻小枝子がセントラルヒーティングと湯沸かしを作動させていたので、玄関先だが室内は暖かかった。
「…会いたかった」
「私もよ」
……本当は、一分一秒でも離れていたくなんかないのだ。結婚は人生の棺桶だという古い格言があるそうだが、全体、そんなことを言ったのは、どこの哀れな馬鹿者なのか。
せめて三和土ではなく、リビングまでは行こうと思ったが、食欲が満たされているからか…その先が欲しくなる。
靴を履いたまま玄関先でキスをしながら倒れ込むなんて……若造でもあるまいし、と大介は可笑しくなったが、どういうわけか止められなかった。
「痛いわ」
テレサが苦笑したので、我に帰る。玄関先の固い床では、身体が痛い、というのだ。
「駄目よ……駄目」
逃げるように身を引くテレサを掴まえ、真っ暗なリビングに連れて入る。そうしながら、彼女のワンピースの背中のファスナーを下ろした。
「……大介…」
灯りが点いていたら、どんな顔でテレサがそう言ったのか…見えただろうに。ワンピースの前身頃に両手を入れてはだけ、下着のホックを外しながら首筋、白い肩にキスを繰り返した。
テレサ。愛してる……愛してる……
溜め息のような、あの切ない声でテレサが応える。
私も……愛してるわ…大介…
互いの脳裏に、きらきらと何か煌めくものが走り…呼吸が苦しくなるほどの幸福感に二人ともが支配される。
リビングにはしばらく前に、二人で選んだ草色のカーペットが敷き詰めてあった。二人くず折れるようにして身を横たえると、ほんの少しだけ開いているカーテンから、月明かりが細長く青白い光の道となって差し込んだ。
テレサの白い身体が、その光の道に映える……鎖骨と乳房を通り、道ははにかんだ彼女の顔を僅かに照らした。碧眼が瞬いている…
と、…ふと、テレサが外に目をやるような仕草をした。
「……ノクターン」
え…?と耳を澄ませば、確かに…そうだ。
「……次郎か」
「ピアノ、ほんとに上手ね…次郎さん」
——次郎の話は、もういい。目の前にいる俺を見ろよ……そう言って、深く、探るようなキスをする。掌に誂えたように収まる胸の膨らみを愛撫すると固く尖った先端が指の間からこぼれた。それを唇と舌で受けとめると、身を捩るようにしてテレサが喘ぐ…。
…離さない…君は、俺だけのものだ…
くだらない嫉妬が、熱を帯びて大介の身体を突き動かした。
「大介……」
いつになく情熱的な夫に驚きながらも、テレサはむせるような幸福感に息が詰まりそうだった。
夜想曲が歌唱的な美しい旋律を繰り返す。時折、クラシックならぬアレンジが入るが、それもまた…美しい、とテレサは思う。
愛し合う抽送のリズムとはまた違う、8/12の拍子が優しい。
「ああ…」
思わず上げた声を封じるように、唇がまた、塞がれる……恍惚として窓の外に視線を振ると、月明かりに幾ひらかの花びらのようなものが、ゆっくり落ちて来るのが見えた——
この幸せが……いつまでも続きますように。
蒼の宮殿で初めて出会ったときの二人は、抗えない運命の奔流に弄ばれる小舟のようだった。明日をも知れぬ戦いの旅の中で、二人は愛する人の存在の重さを嫌と言うほど思い知った。
「愛している」
その言葉は、互いを己の身体や命よりも尊ぶことを意味した……そして、その想いはこの宇宙に生きる者すべてにとって、真実なのだ。お互い、生死の境を彷徨って来ていなければ、もしかしたら気付けないことだったのかもしれないが、大介にとってテレサは、またテレサにとって大介は…喪うことの出来ない魂の半身だった——
嫉妬という感情も、生きて…平和だからこそ持てるものだ。当たり前の平和をこうして手に入れるまでに、一体…どれほどの犠牲を払って来たのだろう。しかし、この当たり前の平和こそが、無上に愛おしい…
あなた…私ね。
こんな日が来るなんて…思ってもいなかった。
愛しているわ……永遠に……
夜想曲の調べが、最後のフレーズを奏でる——
愛しているわ…大介。
……私の、島さん………
* * *
翌朝。
「きゃああっ!!」
…という叫び声に、大介は否応無しに起こされた。
「…なんだ、どうした」
寄り添って寝たはずのテレサが隣にいない。叫んだと思ったら、大慌てで部屋から駆け出して階下へ行ったようだ……
ベッドサイドの時計を見ると、時刻は午前8時過ぎ。遮光性のカーテンがほんの少し開いていて、朝の眩い陽光が一筋、差し込んでいる。
(……もうちょっと寝かせてくれ〜…)
そう思った途端、再び階下から慌ただしく登って来る足音に目が冴える。なにがあった??
寝室のドアを開け、テレサが駆け込んで来た。仕方なく、生あくびを堪えつつベッドの上に起き上がる。「…どうしたんだ?」
「島さん、これを…!」
「…あ…?」
パジャマ姿のテレサの手には、一握りの雪が乗っている。
「ああ、なくなっちゃう…」
手の上の白いものは、見る間に溶けて水になってしまった。
「……ああ、…そうか。降ったんだ…夕べ」珍しいな、とさすがに思う。
気象衛星のコントロールでは、まだ降雪量の調整がうまく行かないから今年も雪は見送りだな、…と真田さんが言っていたと思ったな。それじゃ、これは…地球の自浄能力が追いついて来た、ということなんだろうか……?
「見てください、まだこんなにたくさん……!!」
テレサがカーテンを容赦なくさっと開けた。部屋の天井が一気に漂白されたような、眩い反射光で溢れる。
「これが雪なんですね…?!雪さんの名前と同じ、まっ白で…奇麗な」
興奮する笑顔が、子どものようだ。
(いーぬは喜び庭駆け回り…ねーこはコタツで丸くなる…)と頭の中で歌い、大介は思わず笑う。この分じゃ、すぐに外へ出て遊びたい、なんて言い出すぞ。
「…あの、外へ出てみていいかしら?!」
「…あっははは…」
寒いからたくさん着ていくんだよ。手袋もね。
返事もそこそこに、テレサは飛び出して行った。
窓の外には、青空が広がっている。…昔、自分が子どもの頃には当たり前だった、真冬の…晴天。
……テレサ。ここへ来てからずっと、笑顔だな。
地球へ来てから徐々に見せるようになった満面の笑顔が、この家にいる時には消えることがなくなった。その事実に、無性に嬉しくなる。
母屋から、ピアノの調べが聞こえる。この朝っぱらから、夜想曲。
(おい…ほとんど嫌がらせだぞ、次郎)
ピアノの時間だぞとテレサに知らせてでもいるのだろうか。
仕方なく窓辺に立ち、朝の光を明るく反射する階下の中庭を見下ろした。白いコートを羽織ったテレサが、中庭にいる。大事そうに両手に雪を掬い上げ、2階の窓辺の大介に笑いかけた。
雪の精のようなその姿が、きらきらと眩しい——
(この幸せが、永遠に…続きますように……)
大介はそう呟き、新雪の真ん中で嬉しそうにはしゃぐテレサに、微笑み返した。
<了>
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