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その晩、夕餉の匂いが街に漂う頃。
大介は自宅の玄関前まで下級官吏の運転する車で送ってもらい、一月ぶりに実家へ帰省した。
「…ありがとう。いや、荷物はこれだけだから」官吏に礼を言い、小さなトランクをひとつ下げてエア・カーのドアを閉める。
走り去る車を後目に、エントランスの門扉をくぐった。
——室内から漏れる明かり、母の笑い声。ほっとする我が家の夕食のいい匂いがここまでぷんと漂って来る。島は玄関ポーチの石段に一歩足をかけ、ふと立ち止まった。
(母さんたちよりテレサが先だ…)
母屋の向こう、敷地の奥にあるはずの、もう一つの「我が家」。そこにはテレサが待っているはずだ。今夜はまあ、食事くらいはこっちで一緒にとるとしても。…その後は……
(…早く会いたい…)
愛しい姿を抱きしめる瞬間を連想し、つい頬を緩める。
玄関ポーチを降り、大介は足早に右手の中庭へと向う。細長い中庭を抜けたところに、自分とテレサのために建てた新居があった。
「…ただいま」
玄関ドアの前に立ったまま、大介は固まった。——開かない。
愛しい人の姿どころか、新居のドアすら…ロックされている。玄関先の常夜灯は灯っていたが、よく見れば室内のどこにも灯りは点いていなかった。
(……俺が帰って来る日くらいは気を利かせてくれたってよさそうなもんだろう…)
テレサは、母屋に引き止められているのだ。
ハア、と溜め息を吐いた。
テレサは父母や次郎が目の前にいても、ハグしたりキスしたりすることにそれほど躊躇いを感じないみたいだが、俺はそうじゃないんだ。一ヶ月ぶりの再会なのに、…まずは一家団欒、なのか。
「ちぇ」
玄関を入ってすぐ、二人きりで抱き合えるであろう古代と雪が、またもや妬ましくなる。14で入学した全寮制の宇宙戦士訓練学校時代ですら、半年に一度の帰省で両親とまずは食事・団欒、なんてプロセスは踏まなかったぞ…。
ぶつくさ言いながら、もう一度母屋の玄関先へ取って返す。
無造作にオートドアをくぐると、奥へ怒鳴った。
「ただいま!」
リビングから聞こえていた母と次郎の笑い声がぴたっと止んだ。次いで、慌ただしく廊下のドアが開き…エプロン姿の愛らしい姿が飛び出して来る。
「島さん!」
その後ろから、次郎がニヤニヤしながらついて来た。「…俺も島さん、なんだけど」いい加減、兄ちゃんを名字で呼ぶのはやめなよ、と笑いながら。
「うちは全員島さんだぞ〜」と、父が声だけで大介を迎えた。そう、テレサだって「島さん」じゃないか。
「…島さん、島さんお帰りなさい!」
テレサが夫を大介、と名前で呼ぶのは、実は愛し合う時だけである……そう、今のところは。それで彼女はぽっと顔を赤らめ、聞こえなかった振りをして大介をやはり「島さん」と呼び、半分涙目で抱きついた。
「おいテレサ、上着くらい脱ぐまで待ってくれよ」
首に両腕を回して抱きつくテレサに苦笑しつつ、大介は靴を脱ぐ。ややあって、彼のカーキ色の制服に白い制帽、小さなトランクを受け取ったテレサは、リビングへと先に立って歩いていた。
「父さん、母さん…ただいま戻りました」と、改めて両親に。
次郎も改めて言う。
「お帰り、大介兄ちゃん」
「おう」
背が高くなったな、と次郎を見て大介は思う。…俺ともう、そう変わらないじゃないか。
「次郎お前、身長いくつになった?随分伸びたろ」
「……175」
「マジかよ……半年で5センチも伸びるか?!」いつになく焦る。あと3センチで追いつかれるぞ…。まいったなあ。
その晩は、大介がいくら機を見て新居に戻ろうとしても、一向にうまく行かなかった。夕食の盆を持って退散する計画も、あえなく潰える。風呂はあっちで入りたい(大介の家の浴槽の方が大きいからだ)、と言えば、じゃあリモートコントロールで、と母屋から湯沸かしスイッチが入れられた。気を利かせているのか邪魔をしているのか、母がしれっとした顔で言う……何も、わざわざあっちまで行かなくたっていいじゃないの。
テレサまで、夕食のテーブルから積極的に離れようとはしていなかった。なんとなれば、料理のうち幾つかが彼女の手製だったからである。
「美味しいですか?」と何度も彼女が尋ねるので、ようやく大介も、それがどうしてなのか理解した。
「…君が作ったの?」うん、美味しいよ?と答えてから、テレサの表情に気付く。彼女ははにかんだように微笑んで、嬉しそうに頷いた。
「…はい、お母様に教わって」
こんな笑顔を…君が見せるようになるなんて。
その事実にだけは大介も心を打たれる。お袋も、ただのお節介焼き、ってわけじゃなかったんだな。
「これと、これもだぜ」次郎がお勧めの品の載った皿を大介の前に押しやった。「まあこれは80点だな…こっちは70点」
次郎の言種にテレサは「んもう」と言って笑う。大介へは見せない類いの、悪戯っぽい笑顔だ。
?……なんだよ、二人して。
大介は目を丸くした…次郎とテレサの距離が、いつのまにか以前よりぐっと近くなっているような気がしたからだ。
ついヤキモチにも似た気分になる自分に、首を傾げる…。
「ほら、あれを大介に聞かせてやったらどうだね」
「そうね、随分上達したものね」
「…なに?」
父と母に言われてテレサは恥ずかしそうに頷く。エプロンを外して椅子の背にかけ、立ち上がった。淡い水色のワンピースが華奢な身体の線をなぞり、ふわりと翻る。後ろに一つにまとめた髪が、同じようになびいて、そこだけ金色の残像を残した。
だが、そのテレサの後ろに次郎がひょこひょことついて行ったので、見とれていた大介は我に返る。
(…ピアノ?)
実は、テレサがピアノを弾けるようになったことは内緒だった。サッカー小僧だった次郎が中等部入学と同時に悪友たちとバンドを結成し、高等部2年の現在はインディーズのアルバムまで出していることは聞いていたが、まさか…
リビングでサイドボードと化していたはずの母のピアノは、いつの間にか調律されており、よく見ればその天板の上には楽譜が数冊乗っている。……イスに腰かけたテレサの傍らには次郎が、まるでピアノの教師と生徒よろしく佇んで、こちらを見ていた。
次郎が広げた楽譜を見ながら、テレサが指を鍵盤に落とす。
……夜想曲。…ショパン、だっけ?
有名なその曲を、もちろん大介も知っている。
だが、生まれて初めて触れる異星の楽器…それも、両手が別々の動きをし、足まで加わるこの楽器を、……君が?
「……テレサ」
思わず声が出る。
「…上手いもんだろう」父が聞き惚れるようにそう言った。「このところ毎日、次郎が教えていたんだよ」
次郎がいいタイミングで楽譜をめくってやる。……楽譜の読み方まで、もう解っているのだ。
「…次郎先生のジャズアレンジは影響なかったみたいね。ちゃぁんと楽譜を読んでいるのよ、テレサは」耳コピー、つまり暗譜じゃない、ということを母は言いたいらしい。
始めて半月で、ショパンのノクターンを弾きこなす、その技量は褒められてもいいことだった。まるで赤ん坊の脳のように、水を含むスポンジのように、テレサがこの星の文化や知識を吸収しようとするのは大介にとっても喜ぶべきことであるはずだった。
だが、次郎とテレサが楽しそうに同じような呼吸で演奏を楽しんでいる姿に、大介は心ならずも不機嫌になる。
——嘘だろ。
俺、次郎に……妬いてるのか?
その事実に憮然とする。
(俺のいない間に、テレサが寂しい思いをするより何倍もいいじゃないか)——そんなの当たり前だ。なのに。
自分がいなくても、なんだか…テレサはすごく幸せそうだ。
一瞬浮かんだその馬鹿げた考えに舌打ちする。なんて幼稚なこと考えてるんだ?…いや、にこやかに事実を受けとめられないほど、もしかしたら疲れているのかな。
その優美な曲調が(お前はバカだ)と言っているように聞こえる。嫉妬?それも彼女の世話をしてくれている自分の家族にか?ああそうとも、間違っているのはお前一人だ……大介。
最後の一音がフェードアウトする瞬間に、次郎とテレサは目を見合わせて微笑んだ。次いで、次郎が得意げに顔を上げる。
「どう、すごいと思わない?」
父母に続いて大介も手を叩いた。
「ああ、大したもんだ。まさかピアノが…弾けるとは思わなかったよ…」
「俺の教え方がいいからな!」
ハイ、次郎先生。
至極真面目な顔でテレサが頷いたので、父も母も思わず吹き出す。
「次郎さん、あの、これをアレンジしたのを…弾いてくださる?私、それも好きなの」
テレサのリクエストに答え、今度は次郎がジャズアレンジしたノクターンをアップテンポで弾き始めた。
——ピアノか。
楽し気に身体を揺らしながら拍子を取るテレサの姿を見ながら、次郎の鳴らす音を聴く——
宇宙戦士の道を選んだ大介には、楽器の演奏などまったく縁のないものだった。世相を鑑みて次郎もいずれ訓練学校に入るだろうと何の疑問もなく思っていた自分は、弟のことをまるで解っていなかった。
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