***************************************
『NOCTURNE』——フレデリック・ショパンの夜想曲第2番変ホ長調作品9-2。ショパンのノクターンとしては最もよく知られた曲である。
アンダンテ。8分の12拍子。ロンド形式風の A-B-A-B-A-C-C-コーダ という構成で、右手は装飾音で飾られた主旋律を歌い、左手は同じリズムが繰り返される。イタリア・オペラの装飾的歌唱からの影響が見られる。西暦1831年作曲。
古典楽曲の分厚い本に書かれた説明を読んでも、テレサにはピンとこなかった。
(でも…。380年も前に創られた曲なのに…すごく…素敵)
リビングにある、アシメトリーデザインの黒くて大きな楽器。指でキーを叩くだけで、整えられた音色が流れ出すその楽器は、「ピアノ」という。この楽器を使って、次郎が初めて彼女の前で弾いてくれたのが、ショパンのノクターンだった。
最初から最後まで、悲し気な旋律が出て来ないのがいい。踊るような左手のリズムは、まるで、戸惑いながらも新しい生活を手に入れつつある彼女の気持ちを、上手に表してくれているかのようだ。過去に思いを残していないわけではない。それでも、未来へと恐る恐る踏み出して行く自分の足元に広がる、鮮やかな世界のとばくちを垣間見せてくれるような…そんな曲。
メガロポリス・シティ・セントラルにある島大介の実家のリビングでは、母・小枝子のピアノが毎日のようにぎこちない音色を奏でている。ピアノ初心者が練習するにしては少々難易度の高い曲だが、えらくゆっくりとであれ、ミスタッチはしないのだから大したものだ。
時折、ゆっくりしたノクターンに代わってプロはだしのアレンジが聞こえる。
(あら、これは次郎ね)家の外に微かに聞こえて来る軽快な音色を耳にして、庭へ出て洗濯物を取り込んでいた小枝子は微笑んだ。お手本にと弾いて聞かせているに違いない。だが、主旋律が所々、奔放に崩れている……ショパンのノクターンは古くからジャズアレンジされていることもあり、学友と組んでいるアマチュアバンドのキーボードを担当している次郎は、古典の譜面通りになど弾かない傾向にあるのだ。
「…けど、随分上手くなったじゃん」
「そうですか…?嬉しい…!」
古典楽曲の本に載っている楽譜の読み方を次郎に教わりながら、ショパンのノクターンをゆっくりと弾いているのは、義姉のテレサだった。
テレサが島家に加わってから、島家のリビングには毎日笑顔と笑い声が絶えない。母小枝子が久しく弾くことのなかったグランドピアノもきっちりと調律され、その音色を復活させた。ある日気まぐれに次郎が弾いたショパンの「ノクターン」にテレサは魅了されてしまい、それ以来、ピアノの練習が彼女の日課の一つになったのである。
テレサにとっては、楽譜を見ること自体も興味深い事だった。踊る音符が、細かく区切られた五線の箱の中におとなしく並んでいる様子は、まるで美しい絵のようだ。だが、驚いたことにこれは、きっちりと割り切れる気持ちのいい計算式でもあるのだ。それがこのアシメトリーな楽器の、白と黒の鍵盤に乗せられると、えも言われぬ美しい音の洪水に変わる。
テレザリアムに残されていたデータベースにも、音楽についての項目はたくさんあったが、それまでテレサが自分で楽器を奏でることはあり得なかった。故郷の星の什器を思い起こさせるグランドピアノの形も、テレサのお気に入りである。天板を上げるとさらに美しい音色が空に突き抜けるように昇って行くのも、信じられないくらい素晴らしい…。
「島さんが帰って来るまでに、上手に弾けるようになれるかしら」
「じゃ、午後はもっと練習しなきゃ」
——兄ちゃん、夜には帰ってくるんだぜ?
うふふ、とテレサは微笑む。
「……」次郎はその笑顔に、思わず鼻の頭を赤くした。
テレサは地球人ではない……だから、本当は今一体何歳なのか、正確なところは解らなかった。見た目は20歳くらいだが、兄の大介よりもずっと大人びた表情を見せることもあれば、まるで幼い子どものように無邪気な一面もある…
(広太や幹生には多分ハタチ、って言っちゃったけど…。そのくらい、にしか見えないんだよなあ…)
しかし、初めて兄と出会った頃すでに外見はこんな感じだった、というから、彼女の生きてきた時間を地球時間に直したら、多分ハタチではありえないのだろう。
次郎の幼なじみの広太と幹生は、有名人の次郎の兄が最近結婚したこの美人の姉に一発でやられたようで、ことあるごとに何かと理由をつけては島家にやって来ようとする。だが、「やられて」しまったのは彼らだけではなかった。
(やべえよな…)
次郎は心底そう思う。
次郎にも「カノジョ」と呼べる相手がいたが、このところはすっかりご無沙汰だった。なんとなれば、ハイスクールから帰宅するとこの美しい姉が真っ先にリビングから出て来て、「お帰りなさい、次郎さん」、と出迎えてくれるのだ。なによりその笑顔見たさに、友達の誘いも断って次郎は飛んで帰るようになっていた。
(この人は兄ちゃんの嫁さんなんだから…)それは解っている。
…解っているのだが。
彼女と兄の大介の、悲恋と奇跡的な再会について、一番良く知っているのは自分だ。ヤマトの親友たちすら知らない兄の苦悩を自分は見て来たし、彼女を連れて帰還した後の兄の喜びようときたら、とても言葉では表せなかった。
それなのに。まさか自分がテレサを好きになっちまったなんて、誰にも言えるわけ、ないじゃんか…。
けれど、「次郎さん」と呼び掛けられるとなんだか身体が宙に浮いてしまいそうになる。その気持ちは止めようったって止まらない。「鼻の下を伸ばす」とか、「目尻を下げる」とかいう感覚がどういうものか、次郎は生まれて初めて思い知った。
兄の大介は現在無人機動艦隊極東基地の副司令官に着任していた。大介の勤務先は、メガロポリス近郊にあるとはいえ、機密を扱う部署であり…そのため彼は、基地内の軍官舎に寝泊まりすることを余儀なくされているのである。
「夫婦モン用の官舎に、テレサを連れて行っちゃえばいいのに」次郎はそうぼやいたことがある。毎月休暇のたんびに目の前でイチャイチャされるんじゃ、たまったもんじゃない…。
しかし、兄は首を振ってそれを却下した。
「…冗談じゃない。そんなことしたら、部屋が野次馬だらけになっちまう」
テレサは、と言えば、彼女もここに居たいようだった。兄夫婦の新居は二人の挙式前に島家の敷地内に完成していたが、大介が帰宅するのは月に一度の休暇の時だけなのだ。
「…島さんがいない間、独りでいるのは…寂しいですから」
新居に独りぼっちでいるのすら耐えられなくて、テレサは日中のほとんどを母屋で過ごすようになっていた。
* * *
最初のうちテレサは、地球の感覚ではなかなか上手く生活できず、色々と意外な行動を見せてくれたが、小枝子は一つ一つ丁寧にテレサの勘違いを受け止め、親切にアドバイスを重ねて行った。
「まるでマイ・フェア・レディだな」父の康祐はその様子を見て古典映画のワンシーンを思い出し、愉快そうに笑ったものだ。
テレサは飲み込みが早く、地球の言葉……日本語・英語はあっというまに習得してしまった。生活習慣についても同様で、彼女が郊外の病院からここへ移って来て半年後には、すっかり地球人、それも日本人としての立ち居振る舞いが身に付いていた。過去、彼女には精神感応能力があった。そのいくらかが、まだ彼女の中に残っていたのかもしれない。それが、大好きな島の母親を喜ばせたい、という感情と相まってテレサを動かした。島によく似た母の黒い瞳が、自分の言動にほころんだり見開かれたりするのは彼女にとっても至福の一時だったのだ。
初めて大介が両親にテレサを引き合わせた時、テレサは涙さえ浮かべてその巡り会いを喜んだ。島にそっくりな優しい面差しの父康祐に自分の父の姿を、そして優しい母小枝子の微笑みに自分の母のそれを重ねた時、テレサは改めて、見失ったはずの「神」に再び感謝した。
お母様。
見ていますか?…星屑になったお母様…お父様。テレサは…もう一度、お父様、お母様と呼べる方々と巡り会えました——。私を、娘と呼んでくださる愛しい方々に……
(2)へ > Original Story Contentsへ