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メガロポリス・シティ・セントラルの高台にある閑静な住宅街には、政府の要人の官邸や芸能人のお屋敷などが多い。防衛軍の将校の家もあるが、政治家や芸能人のそれに較べれば質素なものだ。
表札に「島康祐」としか書かれていないその邸のエントランスに電子郵便を届けるポストマンも、もちろん向こう三軒両隣の住民も、その邸の敷地内に誰が住んでいるのかまでは、詳しくは知らない。
敷地の中には、中程度の一戸建てが2つ…小さな庭と半地下のガレージ。そしてこの住宅街のどの家にも共通する、ぐるりを囲む高い塀。プライバシー保護のためとはいえ、その塀の中に閉じこもって暮らさねばならない人間にとっては、時にそれがストレスの元にもなる。
春の日射しが、蒸し暑いほどのその日——
庭に出て、洗濯物を干していたテレサはどこからか淡いピンクの小さな小片が舞い落ちてきたのに気付いて、それを目で追った。
(…雪…?)
とっさに思ったのはそれが雪ではないか、ということだった。だが、こんなに暖かいのに雪が降るわけがない。じゃあ、あれはなに…?
(紙…?)
温かい風が、地表近くに空気の渦を起こし、くるくると舞って上空に抜けて行く。その気流に乗って、小片は再びひらひらと舞い上がった。
出し抜けに、同じような小片がまた二つ三つと庭に舞い落ちて来る。
(……何かしら…)
小枝子のサンダルを突っかけた素足で、それを掴もうと思わず駆け出し、手を伸ばす。だが、小片は羽毛のようにくるくると舞い上がり、再び塀の向こうへ飛んで行ってしまった。
(ああ…行ってしまった…)
だが、そのうちの一枚が、奇麗に刈り込まれた芝の上に落ちる。テレサは身を屈め、サラリと落ちて来る髪を片手で押さえながらそれを拾った。
(…………花びら?)
まん丸に見えた小片には花弁特有の筋があった。
「ああ、それは…桜だね」
「サクラ…」
縁側でゴルフクラブの手入れをしていた康祐が、テレサの掌の上に載っている花びらを見てそう言った。
「しかし桜の木なんか近所にはないと思ったが。今日の風で、どこかから飛んで来たんだろうね。…もう散る頃だったかな、早いものだ」
「散る…?」
「見るかね?」
康祐はにこりと笑い、嫁を書斎へと誘った。
島大介の父康祐は、賢いこの嫁が大のお気に入りである。彼女は、株式相場を読ませればどんなトレーダーよりも正確に上がり株を予測するし、教えもしないのにスーパーウエブの仕組みをすでに理解し尽くしている。自宅でネット事業を起業させたら瞬く間に一儲けできるのではないかと思うほどだ。その他の分野でも、彼女は実に高度な理解と記憶力を示した。よくも長男が軍の情報部にスカウトするのを思いとどまっているなと呆れるほど、彼女は優秀な頭脳を持っているのだ。
「…桜は、古来より日本の文化を代表する花なんだよ」
書斎のデスクに置いてある端末で、ネット図鑑の桜を見せる。
満開の桜。遺伝子操作により、今目にすることの出来る桜の花弁は21世紀初頭の桜の色とほぼ同じだそうだ。白、というよりほんのりと色づいたピンク色。桜(大半がソメイヨシノであった)がこの時期に一斉に開花するのも、大昔の日本人の、初歩的な遺伝子操作の賜物なのだという。
「昔の人は、桜を見て心を騒がせたそうだ」
「なぜですか?」
心が和む…のではなく?
「いつ散るだろうかと、それが心配で心が騒ぐ、ということらしい」
「…散るのが心配で…?」
立体ホログラム動画の、満開の桜の枝をしげしげと見つめ。なるほどそうかもしれない…とテレサも思う。木の肌から萌え出るのは花。それが散って、枝は緑に変わって行く。桜色の枝に緑の葉が混じると、やはり「何かが終ってしまった」かのような気分にはなるわね。
「…久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ(ん)」
思い出したようにそう口ずさんで、康祐の顔を見上げてにっこり笑った。
目を丸くしてそれを聞いていた康祐は、ややあって笑い出した……「そう、その通りだよ」
古今集だったかな?と康祐は慌てて記憶の引き出しを開け閉めした。私が披露したうろ覚えの蘊蓄よりずっと的を得ている。文学の嗜み程度の知識とはいえ、地球人の、それも日本人の私ですらそんなにスラスラとは出て来ないのに、まったく…大した子だ。
それは百人一首の、春の句のひとつであった。
「奇麗でしょうね……きっと」
ホログラム映像を愛し気に見ながら、テレサは呟いた。
康祐は、そこではたと思った。
この子に、桜を見せてやりたい。こんな映像ではなく、本物を。
…だが、近所にちょいと見て来られる桜などないし、たかだか1本2本あったところで見応えはない……
「大介に頼んでみようか。桜を見られる所まで、出かけられないかどうか」
えっ、とテレサが顔を上げた。
「でも……私は」
この家の敷地内から出ない、と言うのが防衛軍本部総司令藤堂との約束だったはずだ。テレサの生体認識コ−ドは軍管轄下のシティ・ナヴコムに地球外生命体として登録されており、彼女が一般道へ出るとおそらく防衛軍内のどこかでアラートが鳴る仕組みになっているはずだった。
「…そんな馬鹿げた仕組みに誰がしたんだ」
康祐は憤然とそう言った。だが、それもすべて…テレサ自身の身の安全を考慮してのことだと、彼自身も知っている…。
彼女は現在、この地球上で唯一生体反応を示す「異星人」だった。同じ仕組みで保護されているその他の「異星人」はすべて、科学技術省のエイリアン研究シンクタンクに「標本」として安置されている“遺体”ばかりである。遺体は主に、暗黒星団帝国デザリアム星人。彼らは脳髄のみが生体で、その身体はすべてが機械で作られていた。科学技術省では彼らから侵略を受けた8年前から、細々とその機械部分の解析を続けていたが、いまだ完全にそのオーバーテクノロジーを解明するには至っていない。
人間の脳の一部の細胞は、その他の身体細胞と異なり、分裂回数の限界を持たない…つまり、脳細胞は、元来不老不死の可能性を秘めているのである。そのことはよく知られた事実だったが、なぜ脳細胞の一部が歳を取らないのか、それはいまだに謎のままである。つまり、もともと、人類の寿命はもっとずっと長かったに違いないのだ。民間企業では異星人の研究は禁じられているが、脳髄のみを生かせばほぼ不老不死が約束されるデザリアム星人のサイボーグ技術に魅力を感じない科学者はいなかった。そのため、技術省のエイリアン研究シンクタンクは幾度となく盗難に遭っており、データの流出、サンプルの不法転売などが後を断たない。しかし、遺体の一部、もしくは全体には複製不可能の生体認識コードが付されており、軍はその都度盗まれたサンプルを奪還、回収するために奔走する。事実上、盗難と奪還は常にイタチごっこであった。
テレサに対しても、彼女が不法に拉致されたりすることのないよう、同じ措置が施されているのである。彼女の場合は、「生きている」異星人だ。サイボーグの遺体より、はるかに研究価値が高いことはいうまでもない。島家の敷地の中、という驚くほど無防備に思える場所に彼女が居られるのは、単にまだその存在が誰にも知られていないからに過ぎない。「テレザートのテレサ」に関する情報のすべてが、軍の最高機密であることも幸いしていた。
さて、しかし。そんなこんなで、普通に考えればテレサを花見に連れて行くなどということは、到底不可能なことなのだが。
康祐は諦めが悪かった。それは彼の短所でもあり、長所でもある……
「あいつなら、きっとどうにかしてくれるよ。本物の桜を見られる場所まで連れて行ってくれるように、私から頼み込んでみよう」
「でも…お父様」
「まあ、任せておきなさい」
その言い方に、テレサは思わず微笑んでしまう。
任せておけ。
その自信たっぷりの言種が、夫にまったくそっくりだったからだ。
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