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2203年のディンギル戦役で月の至近距離に生まれた氷の惑星、アクエリアス。月と地球との引力関係に微妙に影響を与えつつも、月と共に常に同じ面を見せて秤動するその氷塊は、地球の地表からも肉眼で見ることができた。
晴れた月の夜……月の右側へ視線を流すと、そこには歪な輝きが瞬いている。
大介は部屋のベランダに出て、夜空を見上げた。
(……ヤマトが、アクエリアスヘ)
気にならない、と言ったら嘘になる。航海長としてだけでなく艦長として務めた船は幾つもあるが、ヤマトは自分が初めて動かした、人類初の光速を超えた忘れ難い艦なのだ……そのヤマトが、新たなる戦いのためにアクエリアスで生まれ変わろうとしている——。
だが、だからといって今の自分に出来ることは、何もない。夜空に輝くアクエリアスを見上げても、何かが見えるわけでもなかった。
(……古代。早く帰って来いよ…)
守は、いい子じゃないか。
まだ肝心の父親の話を彼としたわけではなかったが、守が古代のことを恨んでいる、という感じはしなかった。
真田さんは、古代を待っている。
ヤマトも……そうだ。
みんな、お前を待っているんだぞ……?
溜め息を吐きつつ、背後の室内をちらりと伺う。テレサは自室でみゆきを寝かしつけている。みゆきと一緒に横になっていると、まだ宵の口だというのに彼女はそのまま眠ってしまうことが多かった。移動が続いたせいで、疲れているのだろう。
昼間、作ったおやつを守と美雪がすっかり平らげてくれたので、彼女はとても喜んでいた……
ちょっと作り過ぎちゃったんです。
そう言ってテレサが指差した調理場のテーブルの上には、歪なシュークリームが大皿に大盛りになっていた。
「これ、なあに?」
怪し気な見た目に、美雪は最初手を付けたがらなかったが、サッカーのおかげですっかり空腹だった守がひょいと一つ口に放り込み、目を輝かせた。「うまーい!!」
「こら、手を洗え」
大介に怒鳴られると、守はぺろっと舌を出し、「はあい」と調理場の水道で手を洗った……
そこから先。とりあえず質だけは良い材料で作られた、出来立てのカスタードシュークリームは、あっという間に子どもたちのお腹に収まり。
大介は結局、小さなシュークリームを2つ、もらえただけだった。
どういうわけだか、すっかり大介に懐いている子どもたちを見て、佐渡も開いた口が塞がらなかったようだ。
(……どうやって手懐けたんじゃ?)
そう聞かれたが、取り立てて何か努力したわけではない。
「いや…俺もよくわからないです」
父親の古代進と、最初どうやって仲良くなったのかまるで覚えていないのと同じである——。
佐渡はしばらく目を丸くしていたが、ふいにあっはっは、と笑い出した。ヤマトでの最初の旅で、そういえば雪も含めて3人、あっというまに意気投合しおったのだったな、と思い出したからだ。
(……俺は、ここで…うまくやっている)
何もかも、間違っていない。幸せで、平和だ。
大介はそう考えた。半ば自分に言い聞かせるように。
勝手なもんだな……
宇宙を飛んでいた頃は、テレサを家に一人、待たせていたことが一番の気がかりだった。だが、テレサと一日中一緒に居るとなると、今度はあの宇宙(そら)が気になる。ヤマトが、立つ。しかし、今の俺は……そこに皆と共に立つことはできない……
再び、夜空に浮かぶ氷の星を見上げた。
<冬月>は結局、アクエリアスの内部でほぼ全壊状態で発見され、CICに残されているはずのブラックボックスの捜索も難航を極めたと聞いた。だが、今はそれも無事発見され、現在はすでに音声データのクリーニングに入っている…ということだ。
古代の汚名も、次期…雪がれる。未知の脅威が再び接近しているが、きっと彼らは間に合うだろう。
だが……自分に出来ることはといえば。……何もないのだ。
春の夜は、まだ屋外で考え事をするには早過ぎるな……。寒い。
軽く溜め息を吐いて、室内へ戻ろうとベランダの手すりを離した。
——と。
大介の背に、突然ふわりと温かいものが触れた………
「……テレサ…?」
いつの間にか、部屋でみゆきと横になっていたはずの彼女が、ベランダに出て来ていたのだ。
「…どうした…?」
黙ったまま、自分の背中にそっと抱きついた彼女を、大介はやはりとても愛おしいと感じる。テレサがこんな風に黙って寄り添ってくるのは、何か言いたいことがある時なのだ……
「……寒いだろう。さあ、中に入ろう」
「島さん」
向きを変えようとした大介を、彼女は止め。きゅっと抱きつく腕に力を入れる。
しまったな、と大介は思った……
ここで、ぼんやりとあのアクエリアスを見上げていたのが拙かった。テレサは、俺がヤマトのところへ行きたいのだと、思ったかもしれない……
しかし実際問題それは、出来ないこと、すべきでないことと、大介自身心に決めている。だから彼女には、そうはっきりと言ってやらなくては。
「テレサ…」
黙って背中に抱きついているテレサに、体の中から聞かせるように、大介は話しかけた。「アクエリアスに、ヤマトが着いたそうだ。太田や北野や加藤も来てくれている。彼らは、新人の訓練教官になるらしい」
自分の身体の前に回されている、テレサの両手が僅かに震える。その手を、そっと握った。
「……でも俺は、……行かない」
握った彼女の手を放し、向き直る。
「ヤマトには行かない。…君と、みゆきのそばにいたいんだ」
「………島さん…」
今にも泣きそうだ。ああ、君って人は。
「…俺がアクエリアスを見てたからかい?」
ごめんよ。
……不安にさせたようだね。「…悪かった」
大介はテレサの両肩を抱くと、少しだけ身を屈めてその瞳を覗き込んだ。
「……俺は、一度決めたら撤回しない。人間だから、迷うことは…ある。あの氷の星を見て、何も思わないと言ったら嘘になる……だけど、俺は出来ないことは約束しないし、第一自分で決めたことは、守らないと気が済まないんだ。……知ってるだろ?」
見つめているテレサの瞳に、またもや涙が溢れそうになっている。
「…ああもう。また、一人でうじうじ考えて我慢していたな…?」
腕の中の彼女を、ちょっと強く抱きしめた。
「俺は、行かない。ここに居る。……安心しろ」
君の不安が無くなるまで。何回でも、何万回でも言い続けてやろう。
愛している、っていうことを、いくらでも…何度でも、言い続けなくては容易に伝わらなくなるのと同じだ。
テレサは大介の胸に顔を埋め、こくり、と頷いた。泣くなと言っても無駄だと分かるから、もう一度……
「……ここに居るよ。ヤマトへは行かない」
ずっと一緒にいよう。
君と、俺と、みゆきと…3人で。
大介が言葉を紡ぐ度、テレサは無言で頷いた。——氷の星が放つ柔らかな光が、2人の足元に濃い影を作る。
さあ、そろそろ、部屋へ入ろう?
彼女がそのまま動こうとしないので、大介はその体をひょい、と抱き上げた。
「あ…」
「もう寒いよ。風邪引くじゃないか」
「……島さん」
「ん〜?」
なんだ?いつまでも泣いてると、このままベッドへ連れてっちゃうぞ。
「……はい」
子どものように首に抱きついたテレサが、思わず涙顔で笑ったのを見て、大介も少しほっとする……そうして、テレサを抱いたまま部屋へ入った。腕の上から、テレサが手を伸ばして窓のサッシを閉める……
静かな氷の星の気配が、再び夜を支配した——。
* * *
「お加減はどうですか、…船長」
大村が休暇を取る時に滞在する、とある貨物中継用惑星の小さな基地……その一画にあるコンドミニアムで、古代進は療養していた。<ゆき>は、古代と大村を置いて、短い航海に出掛けている。
「ああ。随分いいよ」
…というのは、建前である。
そうでも言っておかないと、大村はすぐ「病院へ行きましょう」とうるさいからだ。
宇宙放射線病の既往歴がある古代の傷は、治癒力が衰えているために、なかなか治らないままだった。
今さらながら、軍に居た自分が支給されていた「宇宙放射線病治療」の特効薬の効用に感心する。民間人対象の医療と軍人対象の医療とに、これほどの格差があったとは…と。
貨物船は民間である…だから、軍嘱託の<ホワイトガード>で友納が施してくれた治療のあと、同じ処方の薬をこの中継基地の病院ではもらうことが出来なかった。
「…男前が台無しですなあ」
大村はそう言って残念そうに笑う。伸ばしかけの口髭とあご髭の間に、塞がったばかりの傷があった。
傷痕が目立つから、…というより。
こんな怪我をしたのを、雪が見たら何て言うだろう。…その気持ちが強かったから、いっそ髭で隠してしまおうと。…そう自分は思ったのかもしれない……
「…あと、どの位伸ばせばあご髭と口髭が繋がるでしょうね」
「さあて……私はそこまで伸ばしたことがないので、分かりかねますなあ」
洗面台に立って、鏡の中の大村に笑いかけた。
無為に過ごすこの一時。戻れもせず、戻ろうとも思えず。
妻子の様子を親友が伝えて来るまで、何をする気にもなれず………。
それがこの時の、古代進の心境だった。まさか、故郷の星と妻や子どもたちに……新たなる危機が迫っているなどとは、微塵も思うことなく。
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<言い訳コーナー>その6。
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