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ただいま……
テレサはハッとして瞼を開いた。
みゆきにお乳をやって、そのままベッドで添い寝していたら、すっかり眠り込んでしまったのだ。階下に足音がして、小枝子が大介を出迎えている声が聞こえた。
「……島さん」
胸元を押さえて、飛び起きる。…良かった!!明日の夜までは、帰って来てくれないと思ってたのに…
「…ん、まんま…」
眠っていたと思ったみゆきが、薄暗がりの中でぱっちり目を開けて自分を見つめていた。
「みゆき」起きてたの…?
ハシバミ色の瞳が、屋外から差し込む人工の月明かりに光って見える。
ママをずっと呼んでたんだよ、とでも言いたげに、みゆきはテレサに向かって手を伸ばし、あむあむ…と口を動かす。
「うふふ…パパ、帰って来たのね…」
さ、行かなきゃ。
みゆきを抱き上げ、ベッドから降りようとする。…と、ふいに目眩に襲われた。
……え…やだ
ベッドに腰掛け、みゆきを抱いたまま。ぎゅう、と目を瞑る……
(貧血…?)
ベッドサイドのローテーブルに置いてある時計をちらりと見た。午前0時半……
みゆきと一緒に横になったのは夕食の後だったから、もう3時間は寝てしまったことになる。それでも身体がだるくて、頭もすっきりしなかった。風邪でも引いたかしら……
私って、…役立たずだわ…
そう思うと、ちょっと気が滅入った。私は、島さんの手助けをすることも出来ない。地球へも帰りたくない…その上、…体調管理もままならないなんて…
ママ。…いこ
「…えっ…?」
みゆきのテレパスが、はっきりとそう言った。「いこ……?」
ちきゅう…、いこ……
地球へ、行こう。
「地球へ行こう…、って…」
信じ難い気持ちでテレサは娘のあどけない顔を見つめた。<エデン>で生まれたみゆきにとって、地球は初めての星である…だから、「行こう」。それは理解できるが、でも…どうして。
…こわいの、くるの
ここは…きけん
「…みゆき…?!」
またあの、「怖いものが来る」という警告。そしてここは、危険……?それはこのコロニーが危険に見舞われるということ……?
テレサはみゆきをしっかり胸に抱いた。
(教えて。…何が来るの?)
瞬間……
瞑った瞼の裏に、凄まじいイメージが広がった……
あれは…何?!
真っ直ぐこちらを目がけて伸びて来る、巨大な暗黒点。周囲には重力嵐が巻き起こり、通過していくかたわらにある惑星をことごとく吸い込んでいる。
(…これは何の幻?…白色彗星……?!)
いや、似ているがそうではなかった。
迫り来る暗黒点の中央は、ぽっかりと空いた死神の口のようで、その中を覗き込むことは躊躇われた……時折、叫び声とも呪いの声ともつかない雷鳴のような轟音がその中から響いて来るかのように思われた。暗黒宇宙に恐怖をまき散らし、それは明らかにこちらへ向かって迫り来る最中なのだ。
「……!!」
恐ろしいイメージに、テレサは息を飲んで目を見開いた。
母の感じた恐怖に、それを伝えたはずのみゆきが怯え、泣き始める。
何かが、来る。
地球へ、この太陽系に向かって、何かがまた…進撃して来ようとしているのだ。
* * *
「GL0805/0917……その座標を、テレサが…?」
<ええ、そうです。僕もまさかとは思いましたが…その銀河座標は昨晩…いや零時頃、彼女が、…いえ、みゆきが…、僕たちに打ち明けたものです。もちろん、具体的な数字は僕がここで、解析機にかけて算出したものですが…>
ただの悪夢だとは、僕も思えない。…何かがまた、起ころうとしているんじゃないですか…?
言いにくそうに、戸惑いながら…大介は事の顛末を真田に伝えた。
宇宙科学局のマルチスクリーンを前にした真田は、通信画面に映る島大介の後ろに、みゆきを抱いたテレサが蒼白な顔で立っているのを目にし…ふむ、と溜め息を吐く……。
<…長官>
真田のかたわらで、次郎が狼狽えている。大介はモニタの中にそれを見て、僅かに苦笑した。これはおそらく、次郎にとっては最後まで伏せておきたい事実の核心、だったのに違いない。
咎めるような態度の次郎をちらと見やって、真田は首を振った。これ以上、お兄さんに隠し立てはできないよ。
未明に、火星軌道の外側を飛ぶ彼らの居住コロニー<エデン>から、至極冷静な表情の島が、それでも緊急の連絡をこの宇宙科学局へ寄越した。
真田は、それまで微かに予感していた“時”が来たことに気付いた……彼らの娘に予知能力、いや、かつてテレサが持っていた能力のいくらかが受け継がれていても俺は驚かん。だが、まさか……例のカスケードブラックホールの位置を、詳細に認識するほどだとは。
「お前にはこれ以上隠しても仕方があるまい。今、宇宙科学局で入手できる限りの情報をお前に伝えよう」
その言葉に、再度次郎がキッと顔を上げた。本当は、彼自身は兄にこのことを伝えたくはなかったのだ。だが、何も言うことは出来ずに視線を床へ投げる…。
「……その位置にあるものは、観測史上例を見ない、移動性の巨大ブラックホールなのだ」
<移動性…ブラックホール…?>
解せないと言った顔の大介に、真田は頷いて続けた。
「しばらく前に、銀河の中心部に観測されてな。その一部が、毎秒1万5千キロ程度で、こちらへ向かってきている」
スクリーンの中の大介の顔が、一瞬驚愕に歪む。
<向かってきている……?!>
「……それを見ろ」
真田は複数の圧縮データを<エデン>へ転送し、大介がそれを開くのを待った。カスケードブラックホールの予測進路と速度、およびその影響圏を解析した画像データである。
約3年ばかりのちではあるが、確かにそれがこのまま直進してくれば。太陽系の各惑星が直列する2220年に、冥王星から太陽までのすべての惑星を飲み込み、通過することが確定していた。あまりと言えばあまりのその符合。黒色の魔の手は、わざわざ太陽系の惑星が一直線にそろう時期を待つかのように、ゆっくりと狙いを定めて接近している……
テレサがその予想データを見て、大介の腕に思わずすがった。
「……テレサ。みゆきちゃんの予告は…残念ながらただの悪夢ではないようです。2220年の夏、…いや、早ければ春かもしれない。いずれにせよ、太陽系全体が滅亡する可能性が非常に高いのです。<エデン>も例外ではありません。コロニーは軌道変更が可能ですから、災禍を避けてしばらくは飛び続けることができますが、地球からの供給が絶たれれば…2ヶ月で機能しなくなる。……遅かれ早かれ、移民計画のために水産省のコロニーはすべて、閉鎖される運命にあります」
<……閉…鎖>
そう呟いたテレサの声が、震えていた。<エデン>の閉鎖は仕方がないことだとテレサにも理解できただろう。だがそれでも、彼女にとってはショックだったに違いない。その様子に、次郎は思わず、また目を伏せた。
<…それで、対策は?>
しばらく言葉を失っていた大介が、気を取り直してそう尋ねた。<まだ3年先のことですよね。…対策は立てられているんでしょう?>
「うむ」
次いで大介のもとへ転送されてきた、地球防衛軍の主力無人機動艦隊による迎撃計画、重力場を形成しての進路妨害。地球そのものの軌道の変更計画…。そして、そのすべてが失敗に終った場合の対策。
その時、人類は地球を捨てて、移住を余儀なくされる。その行き先が、サイラム恒星系の惑星アマール、であった。
大介は一通りデータを眺めると、おもむろに視線を上げた…
モニタの中の次郎を見つめる。
「……そうか。それでお前が急に科学局に移籍した理由が分かったよ、次郎」
「…………」次郎は何も返すことが出来なかった。
モニタの中の兄の顔は穏やかだ。
むしろ、自分を労うかのような、温かい眼差し。それは見慣れた“大好きな兄”の目だった。
思わず唇を噛んだ——先だって古代の件を内緒にしていたと怒ったときのように、自分に向かって怒鳴ってくれたらいいのに、とさえ思った、なぜなら。
「兄貴とテレサを護る」と言いながら、自分は結局“逃げるだけ”の、移民という事業を進めるためにここにいるからだ——。
真田はゆっくりと鼻孔から溜め息を吐き出し、大介に向かっておもむろに頭を下げた。
「…すまん、島。今まで、お前たち夫婦のために善かれと思って伏せてきた。古代のこと、そして……この超自然現象のこともだ」
「真田さん、よしてください。お気持ちは、有り難く受け取らせて頂いているんです」
後ろで所在な気な顔で視線を彷徨わせているテレサの肩を、大介は振り返ると抱き寄せた。
「次郎、お前にも、感謝してるよ。…みんなが、テレサを大切に思ってくれている……そのことには、俺がなにより一番、感謝しているんだ」
それに…。
大介はにっこりすると軽く咳払いをして続けた。
「…実はつい昨日、俺…古代に逢ったんですよ」
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