*********************************************
「テレサ、いる〜〜?!」
ふいに階下から声がして、テレサはハッと我に返った。「…お母さま」
急いで階段を下りて行くと、新居の玄関に母小枝子が大きな包みを抱えて立っていた。
「お帰りなさい!……あら」
「うふふ、こんにちは」
「雪さん!!」
小枝子の抱えた荷物の後ろから、馴染みの顔が現れた。古代進の妻、雪である……彼女自身もまた、両手に大きな包みを抱えていた。
雪は、佐渡から委託され昨年からテレサの担当医師を勤めている。ちょっと前まで頻繁に島家のテレサのところへ訪問看護に来ていた雪であるが、このところはテレサの妊娠が進まない事もあり、月に一度顔を出すだけだ。それでも、テレサは雪の来訪をいつも心待ちにしていた……なぜなら、彼女は常に『地球人の女性』としてのテレサのファッションリーダーであり、魅力的な所作やメイク・アップの講師でもあったからだ。
小枝子はニコニコしながら先に三和土を上がり、手伝おうと手を出したテレサにかぶりを振って荷物をリビングへと運び込んだ。
「ああ、いいからいいから。テレサあなた、お腹大丈夫?」
「は…はい」
(…なにかしら…?)
雪も続いてリビングへとやってきた。苦笑している。
「今日はねえ、雪さんに手伝ってもらってねえ…買ってきたのよ、色々と……」
小枝子は嬉しそうに包みを開き始めた。「ほら!」
中身は意外なものだったので、テレサはきょとんとする。こまごまとした小さな衣類、布で出来た玩具…?
「赤ちゃんのものよ〜」
「……まあ……」
目を丸くして戸惑うテレサに、雪が笑った。
「まだ早いですよ、って言ったんだけどね」苦笑して、もう一つの方の包みを開ける。「おばさま、こっちが先じゃありませんこと?」
「ああそうねそうね……でも」
小枝子は、ちらりとテレサを見やった。
「うーん、それもまだ必要ないのかしらねえ……?」
雪の持ってきた包みは何着かのマタニティウエアだった。さすがに彼女のチョイスだけあって、デザインセンスは抜群である。だが、小枝子はテレサを見て…また考え込んでしまった。
「おばさま、大丈夫よ。産後も使えるタイプですから今からでも着られますわ」
自分自身、二児を出産しても尚スレンダーなプロポーションを保っている雪である。小枝子も雪のセンスを当てにして、買い物に付き合わせた、というわけだった。
「…これ、私の…ですか?」
「そうよ、テレサ。お腹が大きくなっても着られる服なの」
「お腹…」
雪はちょっとだけ、目を瞬いた。「……赤ちゃんが大きくなると、あなたのお腹も大きくなるのよ。分かってるわよね…?」
「あ…、そ…そうですね」
理解していないわけではないだろう。雪の二度目の妊娠はテレサの妊娠発覚とほとんど同時だったから、雪のお腹が次第に膨らんで行くのをテレサも見ていたはずだった。ふたりは「もしかしたら私たち、一緒に赤ちゃん生むのかもね」などと言い合った仲だ……だが、結局雪の2番目の子「美雪」が生まれても、テレサのお腹の中の子は依然として大きくならず、今に至っている。最初の頃、「おめでとう」と簡単に口に出来たものが、いつの間にかそれは禁句になりつつあった。
自分の身体が地球人の常識とは大きくかけ離れていることに、彼女がまた負い目を感じたりしていなければいいのだけれど。そうは思っても、肝心のテレサの表情からは彼女が何を思っているのか…は読み取れなかった。
幸い、島の母親は聡明で、この異星人の嫁に関して何が起ころうと、もうそれほど簡単には動揺しなくなっている。それがせめてもの救いだ。小枝子は思案顔になった雪にかまわず、これなんかいいじゃない、大介が好きそうでしょ、などと言ってデニム生地のワンピースを広げている。
雪さんの選んだものは大体当りよね、あたしだけだったらこうは行かないわ!!とはしゃぐ小枝子に、雪も笑顔で相槌を打つ。そう言って頂けると嬉しいですわ。……頭に上った、不安と懸念は、またしても適当に片付けながら……。
* * *
「テレサ、で?体調はどう?」
テレサの自慢のガーデンを散策しながら、雪は訊いた。今、小枝子はベビー用の衣類を仕舞うのにどうかしらと言い、母屋から小さなタンスを運んで来て、それにあれこれと詰めている……雪さん、テレサのお庭を見てやってくださいな、私はその間にお茶の用意をしておくからね……
そんなわけで、2人は暖かな日射しの下に出て来ていた。
「ええ、大丈夫です。お母様もしょっちゅう訊いてくださるけど、……全く何も問題はないんですよ」
「…そう、良かった」
悪阻もなし、身体の見た目の変化もなし。胎児の存在ははっきりしているのに、母体は何もそれを感知していないかのようであった。
地球人類に較べ、テレザート星人はさらにより完全な進化を遂げた人類だったのかもしれない、と佐渡酒造が言っていたことをふと思い出す。
妊娠に伴うトラブルなど皆無のテレサの身体。もしや例えばカンガルーのように、胎児は非常に小さいまま生まれ、それでも成長できる仕組みでもあるのだろうか。
(だとしたら……地球の医学でどこまで対応できるのかしら)
不安は尽きない。だが…考えても分からないものは、考えるだけ無駄というものだ。雪は不安を心からぬぐい去るように、青空に向かって伸びをした。
当面、私の出来ることは…何もない。
してあげたくても、…何も出来ないのだ。
「ねえ、このお庭。あなたが一人でやってるの?」
小枝子が小声で『褒めてやってね』と言っていた事を思い出し、雪は思考を切り替えようと改めて周囲を見回した。「とっても素敵ね!」
自然の下生えが作る小径。こぢんまりとした花壇に、こんもりとした緑が光っている。花というより緑を散りばめた、確かに言われてみれば英国風の小さな庭である…
テレサは肩をすくめて、恥ずかしそうに笑った。
「はい。泥んこ遊びをしてるみたいだよ、ってお父様には笑われますけど」……島さんも、次郎さんも、帰って来るとここへ来て、緑が目に気持ちいいね、って言ってくださるの。
うん、確かにそうだわね。
この季節、息づく緑は清々しく眩しく、美しい……
「……島くんは就活中か。…でも毎晩ちゃんと帰って来てくれるんでしょ?」
「はい。ここに居れば、毎日会えるんですもの……私今、とっても幸せです」
そう言って、テレサは満面の笑みを浮かべた。
(……テレサ)
雪にはだが、テレサの浮かべた微笑みが、半分嘘だという事が分かっていた。
テレサは、現在地球上で唯一生命反応を示す異星人個体として、厳重な管理の元にあった。表向きは地球連邦日本自治州市民としての立派な戸籍も持っている彼女である……日本国籍とスウェーデン国籍を持つ元宇宙考古学者テレサ・トリニティ・シマ。 だが、それは入念に偽造された戸籍であった。
実際には、彼女は『異星人』として監視される立場にある……彼女がこの島家の敷地内から数歩外に出ると、科学局及び防衛軍の監視システムがアラート(警報)を発し、監視対象の行動異常として非常措置が敷かれるようになっているのだ。
平たく言えば、これはテレサの身の安全のため、であった。
現在、地球上に存在する異星人の標本資料は主に、A.D.2202年に来襲した暗黒星団帝星デザリアムの戦闘兵の遺体である。頭部のみが生体、胴と四肢は驚くべきオーバーテクノロジーにより完全にコントロールされたマシンであった彼ら……その遺体は研究資料として様々な医療開発のため、また大真面目な不老不死の研究のため、連邦政府が独占管理しているのだった。
民間での異星人研究が2203年に厳重に禁止されて以来、それら標本資料の盗難や闇市場での違法転売は後を断たず、正直なところ「異星人の遺体の標本」はすべて、常に緊張した厳重な管理の元に置かれている。
表向きは「生きている異星人」は地球上に存在しない。「異星人の遺体」すら、そうした研究目的のために常に盗難の危険にさらされている現況だ。まして、「異星人の生体」が存在すると知れたら、何が起きるかは明白である。万一、違法研究組織にテレサの存在が伝われば、彼女も拉致の対象になりかねない……だからこそ、この大袈裟とも言える措置が施されているのだ。
警報が鳴ると、「彼女」=「異星人生体標本」が「管理施設」=「島家」に戻されるまで一時的に首都圏の交通は麻痺し、軍の奪還部隊が出動する。このシステムを作ったのは他でもない、テレサの夫大介の兄貴分である、真田志郎だった。
彼女はその措置に甘んじ、自らを再び、島家の敷地内にいわば幽閉したのである………
古代雪は、テレサがここへ来た3年前からずっと、彼女がこの家の敷地内から外へ出られない事に胸を痛めてきた。
クリスマスやバレンタイン、桜の時期や夏祭り…それどころかちょっとしたショッピングや街を散歩する事すら許されなかったテレサ。せっかく大好きな人と一緒に居られても、当たり前のささやかな楽しみさえ奪われて。
いいんです、これで私は充分幸せ。
テレサはそう言っていつも笑うが、それで本当に彼女が満たされているとは、雪には思えなかった。
もともと、あの小さな地底の宮殿に何年も閉じこもってきたひとだ。だから、そんな雪の心配顔にすら、いいえ、私は平気です……と天使の微笑みが返ってくる…。
島大介の退役に関して雪も少なからずショックを受けたが、それで良かったのだ…と改めて感じるのだった。夫の進も、さすがにもう反対しなかった。
「……許さねえぞ、島!」
進は、藤堂から島大介退役の話を聞いて一瞬、そう言ったという。だが、彼もすぐに思い直し、遠い宇宙から親友に手向けの祝電を送ったのだそうだ。
テレサ、この人は…
彼女は、長い時間たった一人で辛い思いに耐えてきた。この星に来るまでの時間は言わずもがな。ここに至っても不自由な自らの境遇に文句一つ言わず甘んじている。そればかりか、常に微笑みを絶やさない……
島が除隊するのは残念だが、テレサにとっての、そのささやかな幸せを否定することなど、もう誰にも出来ないのである。
「……あとはこの子ね。パパももうお家に居て、待っててくれるんだから。……早く生まれてらっしゃい。みんながあなたを待っているのよ……」
雪はしゃがむと、テレサの腹部にそっと手を当てて、歌うようにそう言った。
「雪さん……」
テレサの声が、急に震えた。
見上げると、新緑の中に微笑んでいたはずのその頬が、奇妙に歪んでいる。しゃがんだ雪の目の高さにあるその手が、ワンピースの布地をぎゅっと握りしめた。
「どうしたの、テレサ」
「……………」
……そのうち、こうやって気持ちを打ち明けてくれるのだろうな、と雪は思っていた。思っていたから、それほどは驚かなかった……
「テレサ…」
「…泣いても、どうしようもないことは…わかっています……でも」
「うん」
——いいのよ。私には…分かっていたから。
予想できた事とは言え。
……運命はなんて、残酷なのかしら……
テレサの妊娠と共に、次第に判明した一つの事実。
地球人類の寿命は、長くても80年。不老不死を目標とした延命の研究が進んでいるとは言え、実用段階にはまだほど遠い。島が確実に年老いて行くのに対し、テレサはその倍…もしくは数倍の寿命を持つだろう、と予想された。
その容姿は初めて雪が彼女と出会った12年前と比較しても全く遜色はない。方や自分は今年で32歳…ハタチだったあの当時に較べたら、容色の衰えは否定できなかった。私や、古代くん、島くんが歳を取っておばあちゃん、おじいちゃんになっても。テレサはきっと、今とそう変わらない姿で、生きているのだ。
私たちが…寿命を迎えた時、彼女はまた一人、残されてしまう……
でもね、しっかりしないと。
…もうあなたは、お母さんなんだから。
雪はそう言おうとして、ふと思いとどまった。
(お母さんだからって、辛いこと、悲しいことは同じじゃないの……)
「テレサ……悲しいわよね。…辛いよね」
その顔を見てしまったら、自分まで泣いてしまいそうになる。だから雪は立ち上がるとテレサの背に手を回し、そっと抱きしめて続けた。
「島くんと一緒にいたいよね……いつまでも、ずっと。私もできることならそうさせてあげたい……」
抱えているテレサの背中が、大きく震える。
「泣いていいのよ。……あなた、我慢し過ぎよ」
自分よりさらに一回り華奢なその身体をしっかりと抱きしめ、雪はそのまましばらく言葉を飲み込んだ。暖かな日射しが、周囲の新緑を光らせる……
そこここに、丁寧に手の入れられた可愛らしい庭。
…だが、この小さな庭に、自分の思いの丈と希望を詰め込みながら、テレサはずっと涙を堪えていたのだと思うと、胸が潰れそうだった。
*********************************************
(7)へ