************************************
(4)
その頃……。
次郎から貸してもらっている勉強机の上に広げた何通かの手紙を前に、テレサは独り頬杖をついていた。
(……次郎さん)
いつも同じ、水色の封筒。飾り気の無い便箋に、短くても3枚は必ず、次郎は手紙をしたためて来た。彼が今居るのは、宇宙開拓省移民局…である。地球連邦大学からの技術協力、と称して、優秀な学生が各省庁へ派遣される期間があるらしく、次郎は志願して移民局へ赴いていた。
——その理由は。
(……私の…ために…)
兄貴の馬鹿野郎に任せていたんじゃ、いつになってもテレサはカゴの中の鳥だ。…俺がもうすぐ、解放してあげる。
数日前のこと。
久々に帰省した次郎は、真顔でそうテレサに言ったのだった。
* * *
「いいかい、ここに居たんじゃ、テレサは永久にこのままだぜ」
「……仕方が無いわ。私はこれで充分しあ」
「幸せだとかいうなよ!」
彼女の言葉を乱暴に遮った。
……俺、知ってるんだぞ。
次郎は腕組みを解くと、すたすたとテーブルのところへ向かい、テレサの使っている大介のスーパーウェブ端末を起動した。パネル状になっているキーボードをさっとひと撫でする…次郎の指紋認証に反応し、端末がショートカットで履歴を立ち上げた。
「兄貴の端末からテレサが何を見ているかなんて、手に取るようにわかるんだぜ」
「次郎さん」
いやだ…、そんな。どうして……
「……前に言ったでしょ、この星のコンピューターは全部、蜘蛛の巣みたいに繋がってるんだ、って」
「だからって…」
私のプライベートを勝手に覗くなんて、いくら次郎さんでも!
頬を赤くして抗議するテレサに、次郎は動じもしなかった。
次郎の使っていた学習机は、新居の大介の書斎に運び込まれ、今はテレサがこうしてスーパーウェブを見たり手紙を書いたり、読書したりするのに使っている。
大介が退役する以前、彼は月に一度、三日か四日しか帰宅しない生活だった。書斎の隣には大介が苦労して調度を整えた寝室があるが、その当時はテレサがそこで眠るのは、夫が帰宅している時だけだった。
今でも、大介が外出している日中は、ほとんど母屋でテレサは過ごしている。大概は、母の小枝子がいるから退屈したり寂しいということも無い…だが、小枝子も『いつでもいる』と言う訳ではなかった。
一人きり、この家に残されるときは、テレサはこの書斎に戻って来て唯一の外界に繋がる窓、この大介の端末に向かうことが多かったのである……
「赤ちゃんとおでかけするメガロポリス人気スポット。…初めてのお出かけ、海なんか怖くない。フィールドパークで可愛い動物の赤ちゃんとご対面!パパのおでかけグッズ…温泉一泊旅行…」
「次郎さん」
履歴を読み上げる次郎を、低い声で制した。そのテレサの声にはおかまい無しに、次郎は続ける。
「スペースコロニーで桜まつり。ルナアクア、アクエリアスハネムーン。カップルに人気のデートスポットベスト10」
「……次郎さん」
やめて。
「彼女に見せたい夜景ベスト20…ウエストコーストの観覧車。新緑の渓流めぐり…海中水族園でイルカと」
「…もういい!!意地悪、次郎さんの馬鹿!」
小さくそう言い捨て、テレサは次郎と端末に背を向け、部屋の反対側にある小さなソファに倒れ込んだ。涙声だ。
次郎は、口をへの字に曲げたまま、彼女を見やった。
次郎が読み挙げたのは、全部…テレサがこの数週間にアクセスしたウェブサイトのタイトルである。旅行会社の催し物特集、個人のクチコミ情報。端末にはホログラム立体映像の再生装置がついているから、プロアマ様々な人々の撮った、臨場感のある観光スポットのビデオイメージがモニタの上にリアルに再現される……
「ここで、庭作ったりピアノ弾いたり、編み物したりして…それだけで私は幸せです、っていつも手紙の返事に書いてくるだろ。…あれみんな、嘘だよね」
テレサはソファに沈み込み、俯いたまま答えなかった。
「俺…そんなテレサの様子見てて、辛かった」
そりゃあさ、テレサのプライベートな履歴なんか、本当は見るべきじゃないよな。そんなの解ってるよ。でも……
「なんとかしてやれないか、って、俺、ずっと考えてたんだ。ずっと、…連邦大に入る前からずっと」
「だって私は…」
消え入りそうな掠れ声。
…だって、なんとかできるのなら、島さんがとっくに。真田さんだって…協力してくれているのだもの…それに…。
「…この星に、島さんの傍で生きていられることだけで、私は満足しなくてはならないの。……それだろ?もう聞き飽きたよ」
次郎は怒鳴りそうになるのを堪えて続けた。
テレサに怒っても、何にもならない。耐えてるのはテレサ、我慢してるのはテレサなんだ。怒ったり怒鳴ったりしたら可哀想だ…。
一つ、深呼吸する。
泣かすのが、目的じゃあないんだから。
「兄貴の馬鹿野郎に任せていたんじゃ、いつになってもテレサはカゴの中の鳥だ。…俺がもうすぐ、解放してあげる」
テレサは顔を上げた。…今、なんて…?
大介のデスクの傍に突っ立っている次郎は、怒ってはいなかった。穏やかに微笑んでいる。その笑顔には見覚えがあった——いつかどこかで、見た笑顔。
「……次郎さん」
これは……、島さんの、目。
——君はもう、闘わなくていい。
そう言ってくれた、彼の眼差しにそっくりだった。
「テレサにもう、我慢ばかりさせたくない」次郎はそう言って、キーボードをまたさらりと撫でた。目まぐるしいライトの点滅を経て、新たなページが立ち上がる。「方法を見つけたんだ」
「…方法…?」
ん、と頷く。
真田さんにも兄貴にも出来なかったかもしれないけど、俺はテレサを自由にする方法を見つけたよ。
「大学を出たら、俺はここへ勤める。将来、おそらく地球人類にも必要になることだろうし」
微笑みながら、次郎がテレサに指し示した3Dホログラム映像は、ある省庁の建物、数隻の大型船、そして地球ではないどこかの星……だった。
<地球連邦宇宙移民局へようこそ!>
堅苦しい官公庁の紹介ページにしてはカラフルなその立体文字に、テレサは目を奪われた。「……移民…局」
「そう。地球外へ出てしまえば、警報に追っかけられることも無い。テレサは自由になれる」
「で、でも…」
脳裏に様々な反論が上る…というより、まさかこの星の外へ出ることなど、彼女は思ってもみなかった。だってここは、愛しい島さんの故郷。夢にまで見た<地球>、私の第二の故郷なのに…?
次郎はテレサの混乱したような表情に、改めて笑った。
「…兄貴もテレサも、…真田長官もさ、…俺のこと見くびってるよな。どうせみんな、俺のことまだ子どもだと思ってるだろ……だから、言わなかったんだけどさ」
移民局で任されてるセクションの端末から、兄貴がいた無人機動艦隊極東基地、真田長官の科学局データベース、その上防衛軍のマザーコンピュータにもアクセスできるんだぜ…その気になれば。
「まあ、それは…兄貴と真田さんの識別コードを知ってるから、っていうのもあるけどさ。全省庁のシステムコントローラーをハッキングするのにだって、俺なら多分15分とかからない。……地球侵略、しちゃおうかな、って時々思っちゃうよ」
真面目な兄嫁が口を半開きにして絶句するのをまた横目で見て笑い、次郎は首を振った。冗談、そんなことしないって。
「…だから、俺が勝手に、テレサにくっついてる異星人監視用の生体認識コードを解除しちゃっても良かったんだ。だけどあれは、テレサの身の安全のためでもあるだろ。安全に、自由になるにはどうしたらいいか、って考えると…地球外移住(これ)しか無いんだよ」
異星人がいても、不自然でない環境。限られた信頼できるメンバーで構成される移動手段。地球と同じ環境を異星へ持ち出す移民事業……
「テラ・フォーミングには膨大な時間がかかるから、そんなの待っていられない。異星人の星へ地球環境を持って行く移民事業なら、一番話が早いでしょ」
「それで…移民局に」
「うん」
ソファにかけて自分を見上げているテレサの目から、光るものが落ちる。次郎の耳の中で、何かがぼわっと音を立てた。
兄貴も、テレサ、あなたも…。
きっと忘れてるだろうけど。
俺は、あなたと初めて会った時の兄貴ともう、同じ歳なんだぜ……
どう見ても、自分と同じハタチくらいにしか見えない兄嫁。テレザートという、もう存在しない星から来た、この美しい人…。兄貴はいつも不在で、彼女は一人、ここで寂しく時を過ごしている。
俺があなたを好きになっても、誰がそれを責められる…?
感謝と困惑の入り交じった、あの翡翠色の瞳で見つめられると、もう何にも抗えないような気さえした。この人を抱きすくめたい、自分のものにしたいという欲求を殺すために、全寮制の連邦大へ入った……水色の封筒に入れて送る近況報告だけが、自分とテレサとの内緒の時間、のつもりだった。ガールフレンドなら沢山いる。島大介の弟というネームバリューも手伝って、女に不自由することなんかない。だが、言いなりになる娘コをいくら抱いたって、満たされたと思ったことは一度も無かった……
あの<ヤマトの島大介>の弟。しかも地球連邦大学天体物理学部首席。防衛軍に入らなかったことで見下げられた時期もあったが、今はもう、そんなくだらない事を言う奴もいない……退役した兄・島大介に代わり、大学院も防衛軍も科学局も、弟の島次郎をブレインとして引き抜きたがっているのは周知の事実だ。
この俺が今、望んで手に入れられないものなど、何も無いはずだった。
……唯一つ、この美しい人の心、それを除いては……。
********************************
(5)へ