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「大介、これ、なんだか知ってるか?」
湾の中で小錨を下ろしたファントムの操舵室で二人、昼食後のココアを飲みながら。康祐はその装置を箱から丁寧に取り出し、大介に見せた。
「…なに?それ」
なんかの計測器?
「お、相変わらず感が良いな」「だって目盛りがついてるじゃん」「なんだ、それだけが理由か?」
息子はしばらく、その不思議な形をした機器を手の上でひっくり返しながら眺めていたが、その用途まではわからないようだった。大ざっぱに表現すると、60度角に切り出した大きな分度器に、小型の望遠鏡と幾つもの小さなミラーがついている……といった体の代物である。
「これはな、六分儀…セクスタント、という装置だ。例えば、ファントムがここじゃなくて、太平洋のど真ん中にいたとする。その位置が海図のどこに当たるのか、この機械を使えば正確に計測できるんだ」
「……ファントムが高性能のGPSを積んでる、ってことは無視して考えるんだね」
笑いながらそう言った大介に、康祐は苦笑してゲンコツを突き出してみせた。
「エンジンが使えないと想定してみろ。海の真ん中で電子機器が使えなくなったら、手足をもがれたようなもんだろう。だが、こいつと太陽と書くものさえあれば、現在位置が測定できるんだ。大昔、帆船時代の船乗りがやっていた方法だぞ」
「へえ〜…」
計算が得意な子だった。まだ10歳そこそこのくせに、興味を持つと因数分解だろうと微分積分だろうとさっさと首を突っ込んでやり始める。だが、康祐が初めて教えた緯度経度の計測から大介が割り出したファントムの位置は散々だった。それによると、ファントムがパリの凱旋門をくぐっていたり、アンデス山脈に登っていたりしたのだ。
「なんでだよ…そうか、ちくしょ〜」
観測も自分でやらせてよ。どっから間違ったんだろ…
こうなると、この意地っ張りの息子はのめり込む。
右目でミラーを覗き込み、太陽の位置を確定し。左目で覗いた枠の中の水平線と、太陽の位置とを合致させるところまで目盛りを動かす。そうして出た数値を、父の差し出したノートに書き付け、再三筆算を重ねる。
舌打ちながら繰り返した大介の計算の結果は、だが数回目にはほぼ正確な数値を叩き出すようになった。
「誤差、620メートル程度だな。…大体OKだ」
こいつめ…!と康祐は内心仰天したものだ。大学のヨット部でも、同じ方法で新入部員がテストを受けるのだが、大概はこれほど短時間にこの方法を習得することはない。宇宙の海さえ航行可能な高性能の航法装置が普及しているこの時代に、こんなアナログな観測装置に頼る道理などまったくないからだ。
「明日、この湾の外へ出てみよう」
そう言った父に、大介はびっくりして叫んだ……本当に!?
「ああ!ファントムは太平洋だって横断できるんだ。知っているだろ」
最後の航海にするつもりだったから、康祐は大真面目にそれを計画していた。六分儀も、陸のまったく見えない大海の真ん中で使ってこそ、その価値がわかるというものだ。太平洋横断、とまではもちろん行かないが、明日は必ず陸などどこにも見えない外海まで二人で出よう。お前はもう、十分役に立つ航海士だからな。
やったやった〜〜!!とはしゃぐ大介を、康祐は幸せな気持ちで眺めたのだった。
だが、その約束は…果たされることはついになかった。
その晩。康祐の会社の持つ月面施設に小規模だが隕石が落下し、少なからず死傷者が出た。その隕石からは、有害な未知の放射線が大量に検出されたのだ。康祐は急遽本社へと呼び戻され、大介も不承不承、実家へと戻らざるを得なくなった。そしてそれっきり…ファントムも、あのヨットハーバーも、二人が再び目にすることは叶わなかったのである…。
「そんな話、僕聞いてない…」次郎がちょっと不服そうにそう言った。確かに、父の書斎にはヨットを背に映っている父の若い頃の写真があるし、大学で父がヨット部だったことも話には聞いて知っている。…だが、兄大介が父といっしょにヨットに乗っていたなんて、次郎は全然、知らなかったのだ。
「お前が生まれたのを期に、あのカッターは売ってしまったからね。ガミラスのことを予期していたわけじゃないが、…その判断は結果的に正解だったんだな」あの年の暮れから地球への遊星爆弾の直接攻撃が激化し、10年近くに及ぶ地下都市での避難生活が始まったのだ。
この六分儀は、ついに外海へ出ることの出来なかったファントムの思い出に…と、私が大介にやったものだった…。
……振り返るな、と父に言われた18歳の島大介は、それでも…家族の思い出をすべて捨てて旅立つことは出来なかったのだ。
「島さんが…イスカンダルへの最初の旅で初めて会ったとき、僕にした質問が『これがなんだか知っているか?』…だったんですよ」
これから宇宙へ出る、っていう時にね…こんな旧式の航法装置を。…けど島さん、これを…大事に持って、ヤマトに乗ったんですね。
懐かしそうに太田が呟いた。
「…班長、なんてアナログなものを持ってるんだろう、って、あの時は正直驚きました。でも、僕も航法士の端くれです。セクスタントの使い方くらいはどうにか知ってましてね…」
第2艦橋のキャノピーから、乾涸びたような太陽と爛れた地平線を眺め…六分儀でそれを観察し。…太田はそのときヤマトが位置していた、九州坊ヶ崎沖のその場所の緯度と経度を暗算で算出してみせたのだった。
さすがだな、合格だ!と嬉しそうに言った、航海長の顔を…太田は今でも思い出す。ちぇ、俺だってあんたと同い年なんだがな。こんな暗算程度で褒められたって嬉しくも何ともないや、と思ったことは心にしまう。
「……時々、頭の体操だとか言って、これで水平方位を計らされたこともありました。ずっと第二艦橋に置いてあったんです。島さん、案外こういう手間のかかるクラシックなものが好きで。道具はまず手入れからだ、ってよく言ってました。宇宙航法装置だって同じです。若い連中はみんな機械任せにする癖がありますからね、いい教材になりましたよ。でも、白色彗星戦役で…一度ヤマトを退艦した時、島さんの代わりに僕がこれを運び出して。てっきりあの時は、これが…形見になっちゃうかと思って…」
言いながら、太田ははっと口をつぐんだ。
——形見に。
島さんは、そうか、じゃあそれはお前にやるよ…といって、笑ったんだっけ。
いつか俺が往生したら、立派な形見になるだろ?…って。
……我知らず、太田も涙を流していた。
「ねえ…古代さん」
それまでずっと黙っていた母小枝子が、不意に声をかけた。「あなた…、とても具合が悪そうよ。身体は大丈夫なの?あなただって…まだすっかり健康ではないんでしょう?ちゃんと休めている?お願いだから…無理はしないでね…」
「お母さん…」
古代は小枝子の優しい眼差しに酷く狼狽えた。傍らの雪も太田も、戸惑いを隠せない。彼女は、息子を失ったばかりとは思えないほど穏やかで、古代のことをまるでもう一人の息子のように心配していた。
「ああ、そうだわ、それからね」小枝子は立ち上がり、リビングのテーブルの上から紙袋をとって持って来る。「大介がね。…新しいグローブを取り寄せておいて、って頼んで行ったのだけど…」
これ。まだ、包みも開けていないの。古代さん、あなた…よかったらもらってくれないかしら?
絶句している古代の膝に包みを乗せ。小枝子はもう一度彼らの対面に座り直す。リビングに、奇妙な間が流れた。
「…喉、乾いていない?召しあがって?」
そう言いながら、小枝子は自分でグラスを一つ手に取った…「あの子…最後に何を食べたのかしら。それどころじゃなかったかしら…?ヤマトの料理長は母さんよりも美味いものを出すよ、なんて憎たらしいことをよく言っていたのよ」
雪が精一杯、声に出してそれに答える。「はい…。島くんは……いつも金曜日に出るカレ—を…楽しみにしていて…最後に私たちが頂いたのも」
幕の内キャップの、ポークカレー。そんなベーシックなものが好きだった彼。
きっと、手のこんだお料理はお母様の手作りの方がずっと…美味しかったに違いないからですわ。
「……母さんのカレーより給食のカレーの方が美味しいんだ。それと同じだろ」兄ちゃんの気持ち、わかるな、と次郎が呟いた。堪えきれず、雪が口元を押さえる。あの時…作戦行動の繰り返しで、厨房が頑張ってくれていたにもかかわらず…操舵を担う島は何も口に出来なかったのだ。
啜り泣く雪を見やり、小枝子がまた呟いた。
「あの子にも…どこかにこうやって泣いてくれる娘さんが…いるのかしら。だとしたら、本当に申し訳ないわねえ。あの子ったら…そういうこと、なんにも教えてくれなかったから」
古代さん、雪さん、太田さん。
私ねえ、いつかこんな日が来るだろうって…ずうっと覚悟していたのよ。今まで生きて帰って来てくれていたのが、奇跡だったの。あら、ねえ。そんなに恐縮しないで頂戴………
「私たちはね、あなたたちが無事で本当に良かったと思っているのよ。生きて帰ってくれて、本当に…ありがとう。あなたたちも、私たちの大事な…子どもたちみたいなものだもの。生きていてくれてありがとう。…それだけで、幸せよ」
太田が刹那、声を上げて泣き伏した。
男泣きに泣くその姿に、古代も涙を止められない——
古代の脳裏には、いつか病室で微笑んだ、親友の顔が思い出されていた。
(島。お前のご両親は…お前とまったく同じことを言うんだな…。テレサを喪って、ベッドに伏せていたあの時のお前が、俺に言った事だ。テレサは逝ってしまったけれど、古代、俺は…お前が生きて帰ってくれた事のほうがずっと嬉しい。相原も太田も、南部も雪も無事だ。だから、俺は幸せなんだ、と…)
「お母様、島くん…最後にお母様の事も言っていました…」
雪が半分しゃくり上げながら言った。
「いいなあ、ヤマトは…。お袋の腕に抱かれているみたいだ…って。私、今まで…島くんがお母様の事を話すの、一度も聞いた事がなかったんです。でも…彼にとってヤマトは…お母様と同じで…」
上手く言えないわ、と雪は頭を振る。彼にとって、守りたいもの、それは家族そのものだったのよ。ヤマトと共に…、すなわち家族と共に…という事だったのよ……
皆まで言えずに慟哭する雪を見つめる小枝子の目に、初めて…涙が零れた。
「…大介」
……大介。
ごめんね、大介。後ろを見ないで行きなさい、とお父さんはあなたに言っていたけど。母さんは…あなたにいつでも、還って来て欲しかった。…それなのに、母さんは結局…あなたにそのひと言を…言えなかったわ。
せめてこの手で、最後にあなたを抱いてあげたかった——。
「小枝子。あいつはいつでも…この空に居る。幸せだったと思ってやろうじゃないか。あいつを誇りに思ってやろうじゃないか…」
康祐がそう呟き、号泣する妻の肩を抱きしめた。
船乗りは海へ、宇宙船乗りは宇宙へ還る。海の男は、宇宙と言う名の海を…永遠に飛び続けたいものなのだよ。
島家の時間が、ようやく…動き始めた。
康祐の力強い両手を、古代は再度…握りしめる。うなずき、その手を握り返す康祐は、確かに…ヤマト乗組員の父親だった。航海長、島大介。…ヤマトを導き続け、宇宙の海を走らせ続けた、海の男の父親だった——。
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