Original Tales 「息子よ」(1)


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 陽の光を右頬に受け、眩しさに右目を瞑る。左目だけで眺めた大洋は、どこまでも青くて丸くて、自分たち以外は誰もそのどこにも…いないような気がした。



「大介!もう一回だけ、メインスルを一人で上げてみなさい。トッピング・リフトを緩めて、ブームの重みを帆にかけるようにしながら上げるのを忘れるなよ」
「うん!」
 うん、じゃないだろ、と父が怒鳴る。「“了解”、でも“アイ・サー”でもなんでもいいが。<学校>へ行ったら、うん、なんて言った途端にぶん殴られるぞ!それが海の男の最初のルールだ!」
 舵に手をかけて船尾に立つ、褐色に日焼けした父の頬がくしゃっと笑った。
 
 父が大学のヨット部だった頃からこつこつと金を貯めてやっと買った…という小さな帆船が、この<ファントム>だった。全長7メートル、総重量4・86t。いわゆる帆がひとつだけのディンギーよりは大きく、一本マストに主帆および前部に二枚の小さな三角帆がついている、カッターというタイプの船である。こいつは太平洋を横断することだって出来るんだぞ、と父は自慢げにいつも言っているが、本当に太平洋を横断したことはまだ一度もない…ということは大介も知っていた。
 ファントムは、とても奇麗な船だった。真っ白いカーボン・モノコックの船体は船尾が四角い形をしていて、中央にはマホガニー色のつやつやしたマストが聳えている。小さなキャビンに続くステップも、床も壁もすべて木製のクラシカルバージョン、滑車はピカピカ光る真鍮製だ。大きなメインスルにマストと同色のブームが下がり、メインスルの前部にはジブ、及びステースルと呼ばれる小さな2枚の三角帆がある。父の大切な宝物…だが大介にとってもファントムは憧れの船だった。
 見かけはクラシックだがエンジンは最新型で、風のない時やヨットハーバーまでの狭い水路をさかのぼる時には帆を下ろして機関を使う。大介自身は状況に応じてエンジンを使うのもそれはそれでカッコいい、と感じていたが、父はいつでも、エンジンを使わないですめばその方がいいと言っていた。あくまでも、ファントムは帆船。風と、帆と、父さんの腕で動かすんだ。エンジンは便利だが、風に逆らって船を攫って行くような気がしてな。こいつは<ファントム>の名の通り、風を自在に呼ぶ魔法使い…だから、風に困ったことは今まで本当に一度もないんだよ。
 3枚の帆は、目の覚めるような鮮やかなグリーンだ。マストのクロストリーズに小さな旗が揚がり、メインスルが風を受けてブームを船外にぐっと突き出し、船体が動き始めると…父…いや、船長は大きな声でこう言う…
「舫、解け!ファントム出航!」

 幼い大介が父から最初に教わったのは、その「舫」もやい綱、…ロープの結び方である。父が出航、の声を上げると同時にその綱の結び目、ボーライン・ノットをさっと解くのが、大介の大切な仕事だった。次には帆の上げ方だ。だが、どの帆にも、細かく何本ものロープがついていて、全部働きが違う。まずはそのロープの名前をすべて覚えるところからだったが、大介は最初の年にはあっというまにロープだけでなく、一つ一つの滑車の名前から船の各部の名称までをすべて覚えてしまった。ただし、年に一度しかファントムのあるハーバーへは連れて行ってもらえない。覚えたことを復習しようにも、目の前にファントムがない状態では致し方ない。…康祐はそう思い、今年も一から順繰りにおさらいをするつもりで、軽い気持ちで大介に「帆をあげてみろ」とだけ言ったのだ。昨年、たった一度だけ…康祐が手伝いながらではあるが、大介はメインスルを自分の手であげている。
 ところが、大介はしばらくブームに巻き付いているメインスルを眺め、おもむろに頷くとそれを解き始め。
 驚いたことに、昨年の夏の休暇に教えたほとんどのことを、大介は覚えていて手順通りにやってみせたのである。

 参ったな……!
 康祐は頭を掻いた。
「お前、…船乗りに向いてるよ。もうちょっと腕っ節が強くなったらお前をこの船の航海長にしてもいい」
「ホント!?よーし…約束だぜ!!」
 トッピング・リフトと格闘しながら、それでも去年教わった通りに再度メインスルを上げて見せた大介に、父が満足そうな顔で叫んだ。「ジブシートを手繰り込め…ほら、もう動き出してるぞ!」
 出し抜けに、大介は自分の上げたメインスルに一吹きの海風が当たり、ファントムがするりと動きだしたことに気付いた。ブームが軽い軋みを上げて水平に40度ほど回る。“右舷開き”だ。
「…僕が出航させたんだね、父さん!?」ジブについているロープを急いで手繰り込みながら、大介も叫び返した。ロープを引っ張ったり繰り出したりしたせいで、掌がものすごく痛い…
「そうだよ、大介!」
 後ろを振り返り、ファントムの船体から湧き出る白いさざ波を見つめる。その途端、掌の脈打つような痛みも吹っ飛んだ。
 やった、ファントムが走ってる…!!

「父さんが初めて自分でヨットを動かしたのは、大学に入ってからだったからなあ。お前が羨ましいよ」
「次は舵を取らせてくれるよね!」
「うーん、それはまだ早いなァ」そうは言いながら、父康祐は2秒、思案した。おそらくこれが、私のファントムの最後の航海になる。来年はもう…この船を維持できるほどの収入は望めないだろう。そしてなにより…早急にどうにかするべき現実問題が目の前に転がっていた。綱をもっとキチンと巻いておかないと、蹴つまづいてねん挫するぞ。だが、たかだか10歳の長男に十何メートルものロープを素早く巻いて片付けろ、と注文するのはさすがに無理だと思い至る。頭脳は明晰なんだろうが、腕力はさすがにまだ、普通の10歳児なのだから。
「よし…こっちへ来い。父さんがメインシートとジブシートを片付けてる間、お前が舵を取るんだ」
「やったあ!!」
 
 ファントムの右舷はるか向こうには、ここからでもヨットハーバーが見える。だが左舷に広がるのは、大海原だ。広い湾の中を周回するだけの航海だが、湾の外を見る限り、視界に入るのは水平線と青い空だけ。そこだけ見ていれば、まるで太平洋を横断しているみたいに思える。巻き上げた綱を片付けるために船首の小さな前部甲板に行った父の代わりに、今、ファントムの舵を握っているのは自分…、航海長、島大介、なのだ。
 妙に誇らしい気持ちになり、また…右目を瞑ってみる。光る海は左側の視界に満ち、大介はたった独りで大海を航海しているみたいだ、と思った。滑るように走るこの船と共に…まるで風になれたような気分だった——。



 その翌年——2192年。


 初めて自分の手でファントムの緑色の帆を上げ、ぐいと風に腕を取られるようにして出航した時の感覚を、大介は記憶の宝箱に丁寧に仕舞った。その年…彼に、弟が生まれたのである。彼と父親が愛した美しい帆船は思い出にならざるを得なくなった。経済的な理由から父がファントムを知人に譲り渡したことを大介は淋しく思ったが、そのことで父を責める気にはならなかった……なぜならば。一家には、より愛すべき、新しいメンバーが増えたからである。

 しかしその直後……
 巨大な悪意に満ちた、あの隕石による攻撃が始まったのだった。
 未知の宇宙から飛来した遊星爆弾は次第に青い海を陵辱し、大海原は赤茶けた剥き出しの海底を晒す荒れ地と化した。流星爆弾はかつての大地の形をも無残に変えた。ファントムのあったヨットハーバーも、父と航海した光る湾も、今はその面影すらない……。たった数年の間に、人類の生活も急激な変化を遂げた。外宇宙からの脅威に立ち向かうため宇宙を航行する艦船は戦艦ばかりになり、地球外惑星の施設はすべて、統合された新生地球防衛軍の管轄下に置かれ。少年たちは未知の悪意と闘うために宇宙戦士への道を歩まざるを得なくなった。

 ファントムの舵を意気揚々と握っていた少年…あの日10歳だった島大介は、2199年、地球人類初の“光速を突破した宇宙戦艦ヤマト”の操舵手として、歴史にその名を残した。誰もが絶望した侵略の危機にヤマトは幾度も立ち向かい、そして勝利したのだ。誰がいつ死んでもおかしくないと言う状況で、彼らは4たび、地球を救うために立ち上がり…患難を乗り越えて来たはずだった。

 

 

 

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