EMA (16)

 逃げも隠れもしないから、今夜勤務が明けたらうちに来て?

 そう言われ、大人しく引き下がった。
 ……ヤマト航海長、副長のこの俺が。50隻からなる無人機動艦隊を指揮するこの俺が……あの人魚の歌には手も足も出ない。
 まるでローレライ、だな。……毒を喰らわば皿までも…か。





 エアリー・ゼロのエレベーターを8階まで上がる。
 皆川の部屋の前に立つと、いい匂いがした。


「いらっしゃい、隊長さん」
 ご飯、食べてないでしょ。こんなんで良ければ、一緒にどう?ああ、そっちで手を洗ってね……
 中に入って、驚いた。荷物一つなかったはずの皆川の部屋の中は、家具がおかれ、カーペットが敷かれ。舷窓のような窓には明るい色のブラインド、壁にはどこかの港町の写真が大きく貼られ…テーブルにはクロスがかかっていて、二人分の食器が並んでいた。
「……けんちん汁…?」
 勧められるままに椅子にかけ、食卓の上に並ぶ椀を覗き込んだ。
 肉は入ってないわよ。野菜ばっかり。
それからヒレカツとね、白いご飯。こっちは煮物…白菜のお漬物もあるし。「小洒落た西洋料理は作れませんけど」
 しばらく、声も出なかった。
「…なに?どうしたの?」粗末で、悪いかなとは思ったんだけど。
「…いや、そんなことないよ…」
 こういう料理は…地球に帰還しないと食べられないと思っていた。家に帰って、母親の手料理を食べるときくらいにしか味わえない、と思っていた。「…こういうの、好きなんだ」
「そ?よかったわ。あなた軍人さんだから、もうちょっとボリュームある方がいいのかと思ったけど…これで勘弁してね」
 テーブルに食事の支度を整え付けていたエプロンを外す皆川を、上目遣いに見上げる。
「…なあによ、その顔」
 意外だな、って顔しちゃって。あたし、料理は得意なのよ?
「ああ」


 ——君は、びっくり箱だな。

 なにそれ、どういう意味?いちいち失礼ね。あ、こら「いただきます」は?

 島は、戯けながら食事に手を付ける皆川を澄んだ気持ちで眺めた。絵茉。君になら、…話すことができそうだ。軍内では最高機密、口外禁止の彼女の名…そして宇宙の海に葬るしかなかった、あの出来事を。
 皆川の手料理は、とても美味しかった。「美味しいよ」と言う度に、嬉しそうな顔をする彼女が可愛い。そうか…、着飾るだけが女性を美しく見せるんじゃない。言葉では分かっていたけれど。褒めれば輝く、これが…本当にそういうことなんだ。
「やだなあ、そんなに褒められると恥ずかしいよ」
 ただのつまんない家庭料理なんだから。
 …それがいいんじゃないか。しかも、絵茉のいれる珈琲は天下一品ときてるしな…

 夕食の皿を片付けると、南部のサイフォンをテーブルに持ち出して、皆川は慣れた手つきで支度に取りかかった。フラスコに開封したてのミネラルウォーターを注ぎ、ロートに濾布を入れ、挽いた豆を木の匙でそっと落す……点したアルコールランプが、温かな光で彼女の手元を照らした。
「…結局、その豆はどうしたんだい?」
「…大丈夫だったわよ。ちゃんと指定の場所に届いてたわ。…でも、それがね、おかしいの」
 あの翌日、私…いつも取引する場所に行ったんだけど、マーケットの半分が店を畳んでて。ポリスが監査に入ってたわ。非合法のものは全部、撤去されていて…売り子もみんなどこかへ消えてた。
「ふうん」
「どこから情報が漏れたのかしら…」まあ、安全になって私は良かったけど。これも、その時手に入れたものよ。
 皆川が静かにかき回すロ—トの中の液体から、芳香が立ち上る…脳波が鎮まる香りだ。


 島が思うより少し早く、皆川はランプの火を消した。このタイミングが難しいんだよな…、さすがはプロだ。感心しつつ、彼女の手元を見つめる。ロートに上がった琥珀色の液体が、次第にフラスコへと落ちてきた。


「絵茉」
「ん?」
「……つきあってくれないか。俺は本気だ」

 フラスコの取手に手をかけ、外そうとしていた皆川が一瞬動きを止めた。フラスコからカップにコーヒーを注ぎながら、困ったような顔をする。
「…隊長さん」
 私が…黙っていなくなった訳は、…それよ。そんなこと言われるのが…重かったから。
 カップ2つに手際よくフラスコの液体を分ける。そのひとつを、島の手元にことりと置いた。
「絵茉…」
 両手で持ったカップに口をつけながら、皆川は上目遣いに島を見上げている。そうしていられると絶対に肩や腕を掴めない…、それを知ってのことなのか。

「……あたしと寝て、吹っ切れると思ったんでしょう…?あの、例の…あなたを『島さん』って呼ぶ人のことを…」

 けどそれは…錯覚よ。そうそう忘れられるもんじゃないはずよ…

「……」
 ——俺が、テレサのことを忘れられない?それはそうかもしれないが、このままずっと…縛られるつもりはないんだ。
 島の一瞬の戸惑いを見透かしたように皆川は呟いた。「あたしはリハビリトレーナーじゃないんだからね。いつまでも忘れられない女を引きずってる男なんて…願い下げよ」
「そんなつもりはない」
「ああそれと」
 皆川はカップをテーブルに置くと、ついと人差し指を立てた。「あたし、基本的に年下は…嫌いなの」


 その彼女の手を、思わず掴んだ。
 引き寄せ、抱きしめる。
「…やだ、隊長さん」
 離して。
 珈琲が零れるから、とテーブルから一歩、離れる。
「止めてって言ってるでしょう…」


 そう言いながら、皆川はちっとも抵抗しようとしなかった。年下は嫌いよ。防衛軍の偉い人も嫌い。地球に…大事な家族が揃ってる人も、シェラトンの常連だなんて人も、…ヤマトの副長だなんて人も、大嫌い。
「だって…あまりにも世界が違うじゃない」
「そんなの、大した問題じゃないよ」
 ばか。世の中、そんなに甘くないのよ?……わかんない?
 皆川は島の頭を宥めるようにそっと撫でた。馬鹿な…お坊ちゃん。 
「そしてね…あんたの大事な人は、あんたの中で、まだ…生きてる。…ショーンも、生きてるの、あたしの中で」



 はっとする。
 顔を上げると、絵茉は寂しそうに微笑んでいた。


 
「でも、キスを…してくれた」
「実験しただけよ」
「実験?」
 ……あたしも、あなたを受け入れたら…吹っ切れるかなと思ったのよ。でも、だめでした。



 ——お互い、生きた亡霊を抱えたままじゃ。
 あたしたち…無理なのよ。

 それ以上、島は何も言うことも…することも出来なかった。

 




 錆臭い風が時折吹き付けるエアリー・ゼロのエントランスを、ゆっくりと出る。上空200メートルにはメリディアニ基地ドームの天蓋…地球とほぼ変わらない自転速度で回る火星の夜。薄い大気の所為で、地球で見るよりはるかにくっきりと輝く銀河の帯を見上げ、島はエア・カーに乗り込んだ。
 ——寒い。
 ドーム全体に利いているはずの空調も、夜間にはさほど意味をなさない。…マイナス12度か。冷える訳だ。
 エア・カーの窓から、8階を見上げる。ベランダも手すりもない窓が並ぶ、宇宙船の外壁のような簡易住居用のビル。814号室の窓にも灯りが見えた。



(…出前、再開するからまた呼んでね)
 絵茉は屈託なく、そう言った。
「……ああ」
 絵茉のマンデリンは、宇宙一だからな。

 ——んふ、上手いこと言っちゃって。

 ——あの鼻にかかるような声で、マーメイドは笑ってくれた。

 



       *         *         *

 

 



「毎度。マーメイドです〜」
「はいはい、出前ですか?それとも」
「カップの回収〜。隊長さんはもう仕事終った?」
「……隊長〜、お迎えでーすよー…」
 休憩室にいた太助が、CDCへ声をかける。手前のモニタにかがみ込み、操作を手伝っていた太田が顔を上げ、にっこり笑った。

 北野も苦笑していた。彼女、ここのPXのお姉さんなんだって?

「まあ、悪かないけどね…あの人ムチムチボインだし美人だし」
「でも…島さん、ああいう趣味だったなんてちょっと驚きだよ」
「だろ?ほっそり貧乳、が定番だと思ってたんだけど俺も」雪さんみたいな、さ。
「しかも年上なんだろ…あの人」
「もうだんだん誰でも良くなって来たんじゃねーの?」
「ああ?なんか悪口言ってるな」
 島がこちらにやって来ながらそう言ったので、太助と北野は慌てて首を振る。
「いやいやいや、なななんでもないっすよ!」



 第6輸送艦隊の第一艇長を勤める北野が火星に到着し、無人機動艦隊のCDCには一段と活気が溢れた。元ヤマト副長兼航海長の島、副班長の太田、そして戦闘兵としても評価の高いエリート航海士北野……かつてヤマトの航海部を取り仕切っていた3人が一同に会しての訓練指導だ。否が応でも士気が上がるというものである。
 だが、そこへPX併設の喫茶『マーメイド』の店主皆川絵茉が珈琲の出前に来るのが日常と聞いて、北野は少々面食らった。
 島さんがよくそんなの許可しましたねえ、と太田に耳打ちすると、意外な答えが返って来たのだ。

「……ああ、皆川さんはねえ、…カノジョ候補なんだ、島さんの」
 は!?
 太田は驚愕している北野の肩をぱんぱんと叩き、頷きながら言ったのだった。「ちょっと訳ありでな。水を差しちゃだめだぞ。俺、陰ながら応援してるんだ」
 いいか北野。男前のお前は皆川さんの近くをちょろちょろするな。島さんは「付き合ってない」なんて言うけどな、俺は…あの二人、結婚するんじゃないかと踏んでるんだ。


 
「じゃっあね〜〜♪」
 賑やかに手を振る皆川に引っ張られてCDCの休憩室を出て行く島を、北野は苦笑して見つめた。
 嬉しそうに手を振って見送る太田にも呆れる。島は、こともあろうに太田と徳川に「お前らも一緒に来るか」と言って、皆川にぺちんとぶたれていた。
「なあんでデートにこんな大っきなコブ連れてかなきゃならないのよ」
「飯食いに行くだけだろ」
「なわけないでしょ〜?」
「あっはっは…」




 パールブルーの夕焼けが次第に青みを増し。薄い大気圏の向こうの宇宙そらに溶け込んで行く。ヘマタイトの砂塵がピンク色の薄掛けとなって覆い被さる火星の大地に、夜の帳が降りる。

 時に2207年、8月。
 火星基地は、群青の落陽に包まれ、再び静かな夜を迎えた——。

 



                                   <了>

**************************************

 

 

 

あとがき