EMA (5)


 エア・カーは、宇宙港方面へ向かった。

 見送りの出来る宇宙港の展望台——。
 飛び立とうとしているのは、軍の輸送艇、そして連絡艇がそれぞれ1隻。ドームの外には酸化鉄の砂塵が舞い、靄のように空を赤く染め上げている。上昇して行く艦の腹に煌めく無数の航海灯……さながらそれは、動く巨大なビルディングのようだ。
「風が強いな…」 
 こんな日は、夕陽が奇麗だ。夕方になるとこの砂塵は止む。舞い上がった浮遊ダストに光が乱反射して、青色だけが透過して来る。


「隊長さん、……火星、長いんだっけ?」
 うん、まあ。…学生時代、まだこんなに大きな基地なんかなかった頃にも、半年…いたことがある。
「学生時代…?」
「ここから見えるかな」
 展望台に付き物の、有料望遠鏡を指差すと、島はそれを覗きに歩いて行った。
 宇宙港の、滑走路のずっと向こうに。霞んで見える…小さな白いドームが二つ。
「……観測基地だ。旧地球防衛軍の訓練施設だよ」
 古代進と二人組で。新造艦に乗り込む人類存亡計画、別名…箱船計画のために、生活訓練をしていたあの施設。
「あの基地から見える夕焼けはすごかったな」強化防眩ガラス越しのここの夕焼けは、色が淡いだろ?あんなもんじゃないんだ…鮮やかなブルーだ。
 そう、まるで……あの人の…ドレスみたいな…。
 後半は、もちろん頭の中でだけ呟いた。

(俺が、火星に好んで赴任する理由は…それなのかな。思い出したくはないが、…離れるのは辛い。忘れたいけど、…忘れたくない。それが……あの碧い色なんだ……)



「見たい」
 唐突に、皆川がそう言った。
「見せてよ。…その、スゴい夕焼け」
「あ?」
「ガニメデは勘弁してあげる。店に連行しようとしたことも許してあげるわ。だから、見せて」
 その、鮮やかなブルーの夕焼けを。


 そんな無茶な。

 そうは言ったものの、半分は懐かしくなったのだった。厚さ120センチの強化ガラスを透過してくる青色は、本来のそれの10分の一。このドームの外にちょいと出れば、いつか飽きずに見上げた鮮やかなあの夕焼けを、直に見ることができる。
 人生をナナメに見ている跳ねっ返りのマーメイドにも、見せてやりたくなった。
 生きていて、不平ばかり言える…それ自体が、どれほど稀有な幸せなのか。圧倒される神秘的光景の中で、それを君も、噛み締めりゃいい。

 
「すごい。さすが…センター長ね、顔パスじゃない」
 小型の4人乗り探索艇を宇宙港のハンガーからこともなく借りて来た島に、皆川はピュウ、と口笛を吹いた。女性用と男性用のフリーサイズの簡易宇宙服が予備を含めて6つ載った、火星の大気圏も抜けられる探索艇だ。
「重力が40%しかないから、気を付けてくれよ」
 素人をいきなり連れ出すのは、ちょっと無謀かな。気圧も低いからな…帰ったらきっとグロッキーだろ。
 だが、この跳ねっ返りお嬢さんには良い薬かもしれない……そう思い、島はくすりと笑う。
「あの観測基地の点検、と断って来た。あっちで一休みできる」
「……隊長さん、古巣を見ちゃったもんだから、自分が懐かしくなったんじゃないの?」
 あはっはっは。「そうかもな」


 旅客機じゃないからね。乗り心地に文句言うなよ。

「……わあ……!」
 赤錆に霞んでいるのは、地表から数十メートル程度の低空なのだった。探索艇の飛ぶ上空に広がるのは、澄んだ空気。周囲360℃が淡いオレンジ色に見えるのは、遠くの酸化鉄の砂塵に陽の赤色光が反射しているせいだ。
「あれは氷?!」
 北極方面に広がる、広範囲な白、を指差し。
「いや、…ドライアイスだ」
「げー。じゃ、スキーやって転んだら火傷するんだ」
「鼻水垂らしただけで、周りモウモウ、まっ白だぜ」
「きゃはははは…」
 宇宙服とヘルメットで鼻水、ありえないから!!
「南半球のヘラス盆地には、液体の水がある。…湖、っていうほどじゃないけどな」
「へえ…。じゃ、なんでそっちに基地を造らなかったんだろ」
「エアリー・ゼロがメリディアニにあるからさ」
「…は?うちのアパートの名前じゃん」
「いや、エアリー0っていうのは…」
 苦笑した。専門的な話を、民間人に砕いて教える。ああ、こんなに端折って解るのかな…。可笑しいくらい簡単に。…それもまた、なんだか新鮮だった。


 
 空が…白っぽくなって来る。
「そろそろだぞ」
 懐かしい火星観測基地の小さなドームのそばに、探索艇を着陸させる。降り積もった酸化鉄が、艇の周りでピンクのダイナモみたいに舞い上がった。
「外へ出るの?」この飛行機の中からでも…いいわよ?

「出来るだけ直に見たいだろ」
「でも、…あたし…こういうの初めてなんだけど」
「随分弱気だな。走ってる車から飛び降りるよりはずっと安全だぜ」
「……あのね」
 ちょっと怖じ気づく皆川にはかまわず、簡易宇宙服の点検を再度手早く済ませる。メットの無線をオープンに。耳のところだ。そう。そのスイッチを右へ。まさか、酸素は大丈夫だろうな。…よし、OKだ。行くぜ。
「待ってよ………!!」
 探査艇のハッチから、皆川の手を引いて外へ出た。

 満面の……碧——!

 沈んでいく太陽は、白いピンホールのようだ。その周囲にオーロラを伴って拡がる……サファイアブルーの空。太陽から離れるほどそれが濃い青になって行く。地球の大地から見る蒼穹とも違う、吸い込まれるような碧だ。
<奇麗だろ>
<…………>
 皆川は、言葉も出ないようだった。つないだ手に、一瞬力が入る。島もそれに答えるように彼女の手を握り返した。

<……すごい>
 ひと言……無線から、皆川の声が響いた。
<離すよ>
<えっ>
 島は皆川の手を離す。ここの重力は月よりは重い。歩き方の説明はしたが、あの様子なら身動きもできないだろう。何かあればすぐに助けに行ってやれる自信もある……

 青い空へ。簡易宇宙服の腰に付いている小さなロケットノズルを一瞬だけ噴射して、とん…と惑星の表面を蹴って飛び上がった。周囲が碧に包まれる。
 ———碧。……碧、碧。
 ……テレサ……。
 火星の夕焼けが、身体を包み込む。

 テレサ、俺は。
 君に、…こんな風に…抱かれたかったよ——。



——島さん。

 突然、耳に響く肉声が自分を呼んだ。
(……!?)
 テレサ…?
 君を想っていたからなのか? ……幻聴か?

<島さん!…隊長さんっ>
 我に帰る。はっと下を振り返ると、地表で皆川が手招きしていた。無線から響く彼女の声だった。
<…どうした?>
<何回呼んでも答えないんだもん。帰ってきてよ、なんか…おかしい>
 島さん、なんて呼ぶから分からなかったよ。
 しかし、苦笑しつつ皆川のそばに戻った島は顔面蒼白になった。
<大丈夫か!?>
<……わかんない、頭、くらくらするー>
 
 酸素過多。酸素ボンベのレギュレイターゲージが、最初に合わせたものよりかなり上がっている。
 いや、俺のミスじゃない。皆川さんたら。
 初めての体験に胸がドキドキして息苦しかったのか。彼女、酸素の量を自分で勝手に増やしちまったらしい——。


 

 

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