EMA (3)

 広大なメリディアニ基地のドーム内部に造られた小さなシティ部には、せめぎあうように高層アパートが乱立している。それらはすべて、基地に働く民間人の住居であった。
 軍の施設を支える生活必需品を輸出入する行商、金物屋、衣料品卸売り業。軍の施設はお世辞にもラグジュアリーとはいえないが、この居住区に比べればそれでも、格段に洗練されていると言えた。

 自分の着ている防衛軍の佐官の上着が妙に目立つことに気付いて、島はそれを脱ぎ、小脇に抱えた。下に着ているのは、階級問わず作業員も着ているブルーグリーンのコンビスーツだ。これなら、それほどは目立たないだろう……
 ところどころ舗装の剥がれた、砂っぽいグラウンドフロアに連なるビルの入口は、一見してどれがどれだか区別がつかない。乾燥したゴミ屑が、通風口からの風に吹かれて転がる様はまるで砂漠のタンプルウィードのようだった。昼間から路地に寝転がっている酔っぱらいが数人。その間を、出たり入ったりしている薄汚れた小さな生き物は、目を凝らしてみると丸まると太った黒いネズミだった。


「エアリー・ゼロ…ここか。…814号室」エアリー0、というこのビルに、彼女は住んでいるようだ。<エアリー・ゼロ>とは、海のないこの星…「海抜」という定義が使えない火星で、その代わりに用いられた経度0.0地点にあるクレーターの名前である。
 狭いエレベーターで8階へ上る。
 814号室は、通路から見る限り…両隣と同様、人の気配がしなかった。
 間違いがないことを確かめ、ともかくドアのインターホンを鳴らす。 
 大越のお見舞の品と、マーメイドの小母さんから預かったものをポストにぶら下げ、このまま帰ろうか。そう思いつつ、もう一度、いや二度ほど間隔を空けてインタ—ホンを鳴らした。——と、突然。
 エア・ロック式のスライド・ドアが、がっと開いた。
「いい加減にしやがれっ!!」
 怒号に殴られ、茫然とする……
「えっ、あっ…あら」自分が怒鳴りつけたのが島だと気付いて、マーメイドが目を丸くして狼狽えた。「ごめんなさい…!」


「それにしても、なんであなたがこんなとこに来るのよ」
 間違えちゃったわよ……直前に来た新聞の勧誘が、しつこかったもんだから。
「いや…、皆川さん具合が悪いって聞いてさ。…うちのファンがどうしても見舞いの品を届けて欲しいっていうから」
「具合悪そうに見える?」「…いや」
 笑いながら大越からのプレゼントを手渡し、肩の荷を下ろす。それから、PXの君の伯母さんから、これを。
「…連絡入れた方がいいんじゃないか?伯母さん、心配していたぜ」子どもじゃないんだから、電話の一本も入れておいたらどうなんだ?
 皆川は両手に包みを受け取りながら、しげしげと島を眺める。
「……子どもじゃないんだから、放っておいて欲しいわね」
 まあ、中に入ったら。
 外の空気、錆び臭いんだもの……



 皆川は裸足だった。この手の安アパートに三和土はない。靴は脱げ、ということだろうな。島はそう独り合点し、ブーツを脱いで皆川の後について中に入った。
「……なんにもないけど」
 あたしの道具で、店をやってるから…。
 あの、小さなテクニカルサイフォンのことか。
「ええ」
 招かれて入った部屋には拍子抜けするほど何もなかった。まるで、荷物を運び出したばかりの、引越し寸前の部屋のようだ。
 ダイニングキッチンにぽつんと一つだけ置いてあるテーブルに、椅子が一つ。

 大越からの小さな包みをテーブルに置き、椅子を島に勧めると、彼女は小さなキッチンで袋を開けた。PXの彼女の伯母が島に持たせたのは、季節ものの桃、だった。それを2つ、無造作に水道の水でざっと洗うと皿に載せ。
「…食べる?固いやつだけど」
「あ…うん」
 
 皆川は、ストンとした生成り色のワンピースを着ていた。ウェーブのかかった豊かな黒髪は無造作に後ろに束ねられ、赤いゴムでまとめてある。普段のキレモノOLのような格好もいいが、ナチュラルな服装の彼女はいつもより可愛らしく見えた。
 だから、島はその通りを口にする。
「………何それ?口説いてんの?」
 あっははは、と笑いながら皆川はフリッジから出したミネラルウォーターのビンをどん、と小さなテーブルの上に載せる。代わりに大越からのプレゼントを手に取り、自分は小さな部屋の反対側、カーテンのない舷窓のような窓際に寄り掛かった。 
「…うちの大越がえらく心配してるよ。まあ、元気で良かった」…あいつ、実は皆川さんに惚れてるらしいんだ。心配ない、って伝えておくよ…。
「…大越くん、って」あー、あの、いつもニコニコ、微笑み三太郎って感じのひょろ長い子?「へえ」

 カワイイとこあるわね。ほら、これ。流行の店のチョコ…わざわざ取り寄せてくれたのかしら。ありがとう、って言っておいてね。

 うふふ、と笑いながら、開いた小さな包みの中身を島にも差し出す。一粒一粒奇麗に象ってあるトリュフのようなチョコレ—トが、正方形の箱の中に並んでいた。いや…俺はいい、と遠慮しつつ、訊ねる。「皆川さん、どうして店に来ないんだい?」

「…別に、理由…なんてないんだけど」ちょっとね。
「…PXの珈琲、またインスタントに戻っちゃったからな。早く出て来てくれよ」
「……うん……」

 理由なんてない、そんなひと言には必ず何か裏がある。そのくらいのことは島にも分かる……
 だが、深入りするのは面倒だ。

 皆川が出してくれた桃を皮ごと一口かじった。…美味い。収穫してそんなに時間が経っていないのだ。(そうか、これも…コロニー産なんだ)
 地球から運んで来る桃は、皆時間が経っていて柔らかく、汁が多い。
 だが、この桃は違った。地球の大気組成と水の循環機能を人工的に作り出し、作物をテスト栽培する実験用コロニーが火星と木星の間にいくつかある…皆川が、ルートは内緒、と言っていたが、彼ら行商の専門家はそのコロニーで出来る作物の横流しルートを闇で押さえているのだろう。地球から運ぶよりマイレージコストも安く、実際味も良い…リンゴのような歯触りの桃は、結構好みだった。
 そういえば、マンデリンの在庫が残り少ない、と皆川が言っていたのを思い出す。豆がもうないのか。買い付けに行くとしたら、ガニメデなのだろうか。

 ——島はふと、実家にある本格的なサイフォンのことを思い出した。
 それはもう随分前のこと………彗星帝国ガトランティスとの戦いの後、長期入院していた自分に南部康雄がプレゼントしてくれた、アンティークのサイフォンだ。
「僕の実家にね、製造年月日が西暦2000年代の本物のサイフォンがあるんだ」
 え?…と皆川が顔を上げた。
 ガラスで出来ている、華奢なやつでね。ランプでお湯を沸かすんだぜ。布のフィルターを使う。大金持ちの友達にもらったんだよ。俺が地球に帰還する時に、たまたま時間があって運がよければ使うだけなんだ。今度、基地へ送ってもらおうか…

「プレゼントされたものだから譲るわけにはいかないけど、君に使ってもらう分にはかまわないな。…ずっと眠らせておくより、その方がサイフォンも幸せだろ」
 斜に構えていた皆川の顔が、急にぱっと明るくなった。
「…それ、本当に?」
「ああ。ただし、豆はないよ」
「もちろん。…じゃあ、買い付けに行かなくちゃ…!!」
 途端に元気になる。
 …気分屋だな。島は苦笑した。
「ねえ、いつ…届くの?」
「は?」
「サイフォンよ」
 …せっかちだな。今サイフォンのことを思い出したばっかりだぞ。もう送らせろっていうのか。
 呆れ顔で笑いながら、島はモバイルを取り出した。モバイルホンのうち高価な回線を使うものは、火星から地球の回線へ直通のものがある。国際電話ならぬ、宇宙間電話だ。島のモバイルはその回線を優先的に使用できるタイプのものだった。
「ひゅー、セレブじゃん…」さすが、隊長さんね。持ってるモンが違うわ〜。

 ——ああ、母さん?
 俺の、南部からもらったサイフォンのことなんだけど。うん、そう。こっちへ送って欲しいんだ……ああ、明日でかまわない。うん、…元気だよ。うん……うん。母さんもね。あはは。…じゃあ。

 皆川の好奇の視線を嫌というほど受けながら、島は電話を切った。
「時差が24時間あるから、3日後かな…届くのは」
 そうしたら、また珈琲を再開するかい?
「やだ、もちろんじゃない」
 使っていいのね?本当ね……?!皆川は再三念を押しつつ、立ち上がると万歳!と叫んだ。…大げさだなあ。つられて笑った島の頬に、突然…キス。
「お礼!!」
 そのまま、ぎゅう、と頭を抱きしめられた。いつも白いシャツから零れそうなあの胸が、目の前に押し付けられる——
「みっ、皆川さんっ」
 あろうことか、下腹で何かが疼いた。冗談じゃないぜ……
 やっほ〜〜、と踊り狂っている皆川を呆気にとられて眺める。頬を拭うと、ローズレッドの紅が手の甲に付いていた。


 まいったなあ…
 年増のマーメイドか。彼女もまあ、そう悪くない。
(…大越に殴られそうだ。いや、…泣かれるかな)
 そう思いながら、島は帰りのTAXIの中でまた思い出し笑いをした——。


                  *


 だが、その翌日も皆川はマーメイドに来なかった。彼女の伯母に、「元気そうでしたよ」と伝えた手前、島は少々困惑する。連絡一つ、彼女からは来ていないと言うのだ。
 まったく、俺の面目丸つぶれじゃないか。…サイフォンのことであんなに喜んでたくせに。ちっと舌打ちする。

 面倒くさいな…気分屋の女は。

 そうは思ったが、3日後。実家から送られて来た、厳重に梱包された箱を抱えて、島は再びエアリー・ゼロのエレベーターに乗っていた。ここに向かっている原因の半分は、優秀なはずの大越がすっかり元気をなくしてしまったことにもある。
 一緒に行こうぜ、と誘ったが、大越は千切れんばかりに首を振り。どうか皆川さんをお願いします、なんて言ってぐったりしてしまったのだった。



 ヘマタイトの錆臭い風に赤茶けた、814号室のドアに向き合う。インターホンを鳴らし、また怒鳴られるかな、などと考えること数分。
 ドアが、開いた。
「……なんだ…隊長さんか」
 なんだとはご挨拶だな。
 そう返そうとした島は、皆川の様子に少し驚いた。顔がひどく青白い…
「……やっぱり体調、悪いのか?」
「…………」
 失礼ね。今日はスッピンなのよ……人相変わるでしょ、スッピンだと。
 皆川はそう言ったが、帰れ、と言いたいわけではないらしい。ドアを半分開けたまま彼女は中に入ってしまったので、島も遠慮がちに再度、部屋の中に足を踏み入れた。


 相変わらず、殺風景な部屋だな。…女の子の部屋とは思えない……
「…皆川さん、本当に大丈夫かい?」
「大丈夫よ」なんで?
 そのわりに、声にはいつもの元気がなかった。ぺたりと床に座り込んだ皆川を見下ろし、島はさてどうしたもんか、と思案する…
「それ…まさか、…例のもの……?」
 島の抱えている箱を見上げ、皆川が思い出したように言った。
「…あ、うん」
「マジで?」
「ああ」
 マジで約束…守ってくれたわけ?
 ウッソみたい……
 
 皆川の言い草に、島は少々ムっとした。「君の目の前で電話しただろ?ここへ送ってもらうって」
「だぁって」
 ——ウソみたいなんだもの。その場の口約束守る男なんて、…初めて見たわ。
「はあ?そういう人種と一緒にしないでくれるか」
 皆川は、きょとんとして島を見つめている。
 呆れるのは島の方だった。
 ああ?
 もしかして、皆川さんって…——男に嘘吐かれてばっかりいるのか…?
 
 その途端、彼女は弾かれたように立ち上がった。
「ねえ、ちゃんとした豆と、美味しい水があるところでそれ、使ってみていい?!」
「ちゃんとした豆と、水?」
「そう!」
 マーメイドで?
 ううん、と皆川は首を振る。「……ガニメデよ」
 はあ?!
 
 まったく、突拍子もないことを言い出す人魚姫だな。

 皆川は呆気に取られている島の目の前で、いきなりワンピースを脱ぎはじめた。キャミソールの下は、ノーブラ…のように見える。
「ななななにすんだ」大越みたいに、思わず、どもる……
「ばぁか、誤解しないでよ」
 皆川はそのまま隣室に駆け込み、タイトミニのスカートとレモンイエローのシャツブラウスを身に着け、飛び出して来た。テーブルの上のバッグを掴み、島の手を引っ張る。「行こ」
「ちょっと……、今からガニメデなんて無理だぞ」
「なんで?」
「なんでって」
 アホか……第一俺、パスポートも何も持ってないし。
「あんたに一緒に来てくれ、なんて誰が言いました?」用があるのはこのサイフォンちゃんだけよ、宇宙港まで送ってくれればいいの。
「……は!?」
 
 駄目だ……ついていけねえ…。



 引きずられるように乗ったエレベーターの中で、島は半眼になって説明する。そもそも、これから宇宙港へ行っても民間の定期便は午後3時で終わりだ。ガニメデへ向かう便は夕方から夜間は飛ばない、しかも俺はこれを君にあげると言った覚えはないぞ。
「……そうか」パスポートとお金さえあれば、なんとかなる…って訳じゃない……か。
「…当たり前だろ」
 島の抱えている、40センチ四方の箱を見つめ、皆川はやっと落ち着きを取り戻したようだった。
「………ごめんなさい、隊長さん」
「わかりゃいいさ」溜め息を、数回。

 エレベーターは1階についた。
 戻ろうか、と言った皆川に、島は提案する。「…せっかく出て来たんだ。俺とドライブでもどう?」
 あわよくば。このまま「マーメイド」に連れて行っちまおう。この気まぐれお嬢さんを、心配してる人たちがいるんだからな。
 島のそんな下心を知ってか知らずか。皆川は「いいの?」と言って後に付いて来た。ネイビーブルーのエア・カーを、近くの路上に停めて来たのだ。


 

 

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