草色のカーペットの敷かれたリビングにところ狭しと置かれた観葉植物や色とりどりの花の鉢。二人がかけているソファの傍らにあるマガジンラックには数冊のピアノの楽譜、…料理の本や編み物の本。
——それらの中に微笑む島の姿は、いつしか共に戦場を駆け抜けた戦友ではなくなっていた。
「…島」
「民間…もしくは、教官コース、かな、って思ってる」
——島。
複雑な思いが、古代の胸の内を駆け巡る。だってお前、教官は苦手だって言ってただろ…それに…
部屋中に満ちた、テレサの想いの象徴のような品物。過酷な宇宙で、たった独り戦い抜いた孤高の女神の面影は、そこには欠片も残っていない。ここに暮らすのは、ただひたすら愛する夫の帰りを待ち、手に入った当たり前の平和を、…当たり前の幸せを、心から慈しむ一人の女性だった。
古代は小さく溜め息を吐く。口の端に、ほんの少し笑みを載せ。
手みやげにと買って来た包みを開け、ソファの前に置かれたテーブルにどん、と置いた。…ワインである。「せめて明日まで飲まないでおけ、って言うつもりだったんだ。でも」
…テレサは、お前が防衛軍にいることを、辛く思っていたものな。
それをお前は知っていて、負い目を感じていたものな。
「…臓器交換したてだと、悪酔いするかもしれんが。…一杯くらい、やろうぜ」
「古代」
「めでたいんだか残念なんだか、…複雑だな。しかし間違いなく、お前が現役引退したら嘆く連中はわんさといるぞ?」
あはは…、と二人はどちらともなく笑い出す——。
「島くん!!」
突然、勢いよく襖をぱん!と開け、雪が血相を変えて飛び出して来た。「島くん、大変よ……!!」
「なんだ、どうした」
異口同音に古代と島がそう答える間に、雪は躊躇いなく島の手を引っ張り、ソファから立たせ。
和室の長座布団の上に、ぺたりと座ったテレサがいる。
着ている衣服の下から、彼女は自分の下腹に雪の聴診器を当て。耳にかけたイヤーピースを片手に、呆気にとられたような顔をしていた。
「テレサ、どうしたんだ」
「…島さん…」
「島くん、聞いてご覧なさい!」
雪に言われて、テレサの手からイヤーピースを受け取った彼の耳に聞こえて来たのは、ごくごく小さな音ではあるが、規則的に脈打つトクントクン、という音——
「……うそだろ」
「嘘じゃないわよ。赤ちゃんよ、島くん!!」
やだもう…、ほんと、涙出て来ちゃった!!
そう言いながら、雪はモバイルで佐渡に連絡を取る。
「ええ、はい…そうです。心音を確認しました。触診ではちょっとはっきりしないんですが、ほぼ間違いありません」
固まった大介の肩越しに、古代も目を丸くして覗き込む。その古代に向かって、モバイル通信を切った雪が真顔で言った。
「古代くん、今すぐ中央病院へ戻って、佐渡先生を連れて来て頂戴!!」
「お、おう!!」
飛び出して行く古代を後目に、島は戸惑ったままのテレサを、両腕を広げて抱きしめる——
「島さん……」
見開いた大きな両目から、ぽろぽろと涙が零れた。
…今一体何週目なのかしら、最後の生理はいつだった?それから、ご両親には連絡しなくて良いの?…などと、二人に必要な質問をしようとしていた雪だったが…口も利けずに涙を流しているテレサとそれを黙って抱きしめている島の背中を見て、言葉を失う。
(……そっとしておいてあげましょうか…)
そうね、古代くんが先生を連れて戻ってくるまで…。
うふ、と軽く溜め息を吐き。雪は静かに和室を出た。
* * *
長い金色の髪を、ゆっくり…指で梳く。ベッドサイドの照明を一つだけ残して、部屋の灯りは全部消した。胸に寄り添う額にキスをすると、嬉しそうに彼女が微笑んだ。
「…明日から忙しいな」
せっかくの休みなのになあ。一体何人、お客が来るんだろう。……担当は、グレイスが買って出てくれたよ。雪が連絡をとってくれている。あと20日ほどすると彼女の輸送艦隊が帰還するからね。
「グレイス先生が」
「…女医さんだし、気心も知れているだろ」
「…ええ」
グレイス・ハイドフェルト医師は、ガルマン星からの帰途、ずっとテレサの担当医として世話をしてくれた輸送艦<ポセイドン>の艦医である。
嬉しい…と呟いたテレサの髪を、愛撫するようにまた指で梳いた。
「……お母様やお父様には知らせなくていいの?」
実を言うと、まだ両親にも次郎にも、報告していない。
「…だって、父さんたちも次郎も、そんなことしたら慌てて帰って来ちゃうだろ」明日でいいよ。せっかく君と二人っきりの時間を過ごしてるんだから——。
まあ、あなたったら。
くすくすと笑う姿が堪らなく愛しい。
「でも…、これからは二人っきり、っていうわけには行かないのよ」
「…それもそうだけど」
今はまだ、どこから眺めてもその中に誰かが居る…などとは思えないテレサの腹部に、もう一度そっと指を滑らせた。我知らず、頬に笑みが広がる。——ふと昼間、古代がまたもや先輩面をして言い放った言葉が思い出された。
これから色々あるからな。お前もちょっとは勉強して、いいパパになれよ?
そんな古代に反論しようとして、大介は自分が何も知らないことに気がついた。今では艦長としてもあいつには負けない自信がある。それなのに、訓練学生時代から常にトップを独走して来たこの自分が…しかし妊娠だの出産だの、子育てについては古代の知っていることの半分も知らなかったのだ。
畜生、…なんだかんだ言って、いつもあいつに先を越されるな。
(よし…笑っていろよ…古代。島大介は引退しても、父親業ではお前になんか負けないからな………)
ベッドの中で寄り添って微笑むテレサをふと見れば、彼女はまだ一糸まとわぬ姿のままだ。
「…身体、冷えるといけないな。着たほうがいい」
急に真顔になって、起き上がりベッドの足元に放り投げてあったパジャマをたぐり寄せた。もちろん、一体今妊娠何ヶ月目なのかも判明していないのだから、愛し合うにしてもかなり自重した大介である。その点でも当然抜かりはない。
「大丈夫よ。昨日の晩だって、何も着ないで寝てしまったじゃない…」
「いいから着なさい。うっかりしたよ…。足は特に冷さない方がいい、って雪も言ってただろ」
「…島さん…?」
面食らって、テレサはきょとんとする。
「……君は、俺の…護るべき宝物なんだから」
——それと…もちろん。この子も。
その愛おしい鼓動の上に、そっと手を置いた大介の言葉に。
テレサは嬉しそうに、…本当に嬉しそうに笑った。
< 了 >
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