指で梳いた長い金色の髪を、そのまま口元に寄せる。——君の匂い。
軽くそれにキスをして…もう一度華奢な肩の向こうへ撫で付けた。宥めるように髪を愛撫する大介のその仕草に、テレサは溢れるほどの幸福感を噛み締める………
「…明日、一番に中央病院へ行って来るよ」
「ええ」
休暇の最中に当たってしまってごめんな。そう謝る声音も愛おしい…テレサはいいえ、と首を振った。
「…くすぐったいよ」
半身を起こし、タオルケットをはいで右脇腹を指でなぞると、大介がくすくす笑った。
そこに残る、大きな古い傷痕。
ただ、消えかかっているその傷痕の端には新しいドレーンの挿入痕がある。
「もう、痛くはないのでしょう?」
「入れ替えの時は半日くらい痛いさ」
まあ、と心配そうに上げた顔に、彼は悪戯っぽく笑いかけた。“肝臓”の交換が済んだら、家で大人しく寝ているから、そばで看病してくれるかい?
「…もちろん」
おかゆを作って、あーん、って食べさせてあげるわ。
そう言いながらくすくす笑うテレサを、大介も笑いながらまた抱きしめた。
その日の夕方、大介が帰宅した時には珍しく母屋は空(から)だった。父母は旅行中、次郎も学校の研修で2・3日帰らないのだと聞いていた——だから、俄然帰宅時間を早めようという気になる。誰もいない家に、待っているのは君一人。玄関を入ってすぐに抱き合えることなど、滅多にないのだから。
何にも誰にも邪魔されたくなかったから、ヴィジュアルホンもモバイルも、すべて留守録に切り替える。当然、消音モードだ。おそらく母さんか次郎が電話を寄越しているだろうが、今晩ばかりは応答するつもりはなかった。
——ほら、お母様から伝言が来ているわ。
テレサがやっとヴィジュアルホンの留守録に入っている伝言を確認したのは、もう夜も大分更けてからである——
「いいよ、明日こっちから連絡入れるから」
ろくにその内容も確かめず、浴室から巻き付けて来たバスタオルを前でかき合わせただけのテレサを、後ろからくるりと抱き込む。…そうしてまたベッドに倒れ込み。再び幾度も抱き合った後…パジャマを着るでもなく。二人はそのまま、ぽつりぽつりと話を交わしていた。
一月に一度、4日間ほどしか帰省しない大介だが、今回はたまたま帰省中に人工臓器の交換の日程が重なった。滞在は一週間の予定になっていた。
大介の肝臓は、人工臓器である。もう6年前になるが、水惑星アクエリアス接近の際に起きたディンギル戦役で彼は負傷し、命を落としかけた。爆撃による、肝臓の全損だった。
人工臓器の形成技術はこの23世紀において飛躍的に進歩したが、肝臓だけは未だに人工物と生体移植を併せたハイブリッド型が主流である。軍人のQOLですら低下させる事なく1年から3年ほどは機能する、という高性能のハイブリッド人工肝臓だが、定期的な臓器カートリッジの交換は必要不可欠なのだった。そのため、ドレーン(排液管)の痕だけはいつまでも残る…
「この痕は、痛くないの…?」
チューブを差し込むために出来る、直径8ミリほどの穴の痕が2つ。
「前回から半年経ってるからね。…今は全然痛くないよ」
入れ替えの直後だけさ…痛むのは。しかも実際は、鎮痛剤を飲むほどでもないんだよ。
その言葉を聞きながら傷痕に頬を寄せ、…そこにそっと唇を這わせる。
「あなたの身体…、傷だらけね」
「…カッコいいだろ」
「よくない」
チェ、と大介は苦笑した。ヤマトクルーはみんな、身体中傷だらけだ。南部みたいにその都度奇麗に美容形成するやつもいるが、古代なんかは俺よりすごい。全部そのままだぜ。……傷は男の勲章、っていうじゃないか。
……そんな勲章、いらないわ。
ドレーンの痕に唇を当てたまま、テレサが呟いた。
半身を起こして、彼の身体に残る傷痕を数える。
これは…私がいつか、あの宮殿で手当てした傷。
こっちは、飛行機の不時着で負った傷…右腕のこれは、勤務施設が爆撃された時の傷。そして、あなたに未だ不自由を強いている、この右脇腹の傷は……
「酷い…怪我だったのね」
「………ああ」
死ぬかと思った。…いや、死んだと思ったよ、正直。
ディンギル戦役の時の話は、テレサにはまだしていなかった。
「…俺は今、この通り健康だ。多少の不自由はあっても、第一線で働くのに支障はない。…あんまり心配しない、って約束するかい?…だったら、話してもいいけど——」
自分こそ命すら顧みずに飛び出して行くくせに…とテレサの額をちょんと突つく。
大介の身体の不調となると、彼女は異常なほど心配するからだ。その気持ちもわからなくはない……ようやく手にした二人揃っての幸せである。今さらただの怪我や病気で離れ離れになるだなんて、そんなことはあってはならないのだから。
テレサは無言で、身体を起こし…もう一度広い胸にもたれかかった。「話して…?」
あなたの胸の鼓動を聞きながら…しっかり抱き合っていれば、何を聞いても大丈夫。目を閉じても温もりが肌を通して私に伝わる。絶対に…離れたりしない、それが…分かっているから…怖くはないわ。
*
水惑星アクエリアスは、不自然に地球へ向かっていた。
それが人類を滅亡させ地球を横取りしようと画策したディンギル星人たちの仕業である事を知った俺たちは、敵の本拠地に向かったんだ——
彼らが地球人と袂を分かった同じ人類だと判明した時は、驚いたよ…
「地球艦隊は、あの時ほぼ全滅した。…今度ばかりは本当にもう駄目だと思ったよ…」
次郎や父さん、母さんは、最後まで内惑星基地へ避難せずに、地下都市で待機してくれていた。ヤマトの乗組員の家族だからという理由で、避難の順位も優先されていたのにそれを断ってね。雪や南部や、相原の家族もみんな…同じ決断をしたんだそうだ。もしも、そうしてくれていなかったら、今頃はみんな…死んでいただろう。連邦市民を乗せて地球を脱出した避難船は、ほとんどがディンギル星の攻撃隊に撃墜されたんだ…
テレサは目を伏せた。
一つの星から生まれ出た同じ人類が、他方を殺してその地を奪おうとする。繰り返される、哀しい…歴史。テレザートの、二つのキャルヴが辿った道も、ガトランティスが辿って行った道も…同じだった——
「…他人を殺めてでも自分が生き残りたいという気持ちは、わからなくはない。しかし結局…そうしなかった人たちが生き残っている。…この宇宙に、神…という存在がいるのかどうか俺にはわからないが、そうやって、自分を犠牲にしても誰かに生き延びて欲しいと願った人が生き存えているのを見るとね……神様はどこかにいるんじゃないか、って…思うことがあるよ」
——テレサ、君がそうだったようにね…。
ふと表情を固くして、大介は中空を見つめる。テレサには見えない何かを追うような…遠い視線。
「……俺たちもみんな、自分が生き延びるために戦って来たわけじゃない。すべては、この星で待つ…愛する人たちのためだった」
出撃する時俺たちは…護るべきもののために、己の命を生きる事を…捨てる。生き残りたいと願ってしまえば、己の保身しか考えられなくなるからだ——
君に出会う前も。
…出会ったあとも。
一つのミッションを遂行する時、俺たちが常に、もう後はない、と覚悟することを…君に話したことはなかったね。
ぴくりと震えたテレサの肩をぎゅ、と抱き寄せながら。しかし…彼は続けた。
「ディンギルの移動都市要塞ウルクに、アクエリアスをワープさせ地球に向かわせる装置があると分かって、俺たちはそこに強硬着陸した」
——ああ、その時点でも何度か思った。これで終わりだ…、もう駄目だ、って。彼らが要塞衛星の防御に使ったニュートリノビームを浴びれば、ヤマトはひとたまりもない。
「でも、…常にこのまま死んでもかまわないと思いながら前進しなければ……戦いには——勝てない」
生き延びたいと思った瞬間、保身に走るのが人間だ。保身を思った瞬間、恐怖が蔓延する。俺は……いや、俺たちは、ヤマトにいた時間の中では常に。自分を殺しても…仲間が倒れても、地球を、そこで待つ人々を生き存えさせなくてはならないと、覚悟して戦って来た。——恐怖に飲まれている暇はなかった……。
胸に寄り添っていたテレサが、また身体をきゅ、と硬直させたように思い、大介は溜め息を吐く。
「……もう止めようか、こんな話」
テレサは黙ったまま、彼の肩に頬を押し付け、首を振った。その胸に片手を回してしっかりと抱く。
誰かを護りたい。そのためなら、自分の命など惜しくない……
その感情はテレサにも覚えのあるものだ。
けれど、それは…哀しすぎる記憶だった。
「大丈夫…。今は、生きているんですもの…」
あなたも、私も。
そして、もう2度と…そんな恐ろしい世の中は来ないわ。
「…うん、そうだね……」
不思議なものだ。若かったあの頃は、恐怖を捩じ伏せ死なばもろとも、などと簡単に思えたのに。今の俺にはおそらく、あの…腹から後頭部に抜けるような、敵陣に飛び込むときの高揚感は——辛い。常に…帰らなくてはと心に思うからなのだろうか…?
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