医務室の、グレイスのデスクに置かれた内線インカムが音を立てた。プライベートな連絡にしか使われない内線だったので、グレイスは危うくその呼び出し音を聞き逃すところだった。
「あ、…はいはい」
慌ててイヤホンを耳にすると、島の声が響いた。
<……そちらの状況はどうだ?>
「艦長……はい、司さんは今、音無先生の診察を受けています」
入院患者は司一人だけだから、「状況」といえば司のことだ。「ワープ中も特に異常はありませんでした。ただ、ワープの操作は当分させない方が無難でしょう。まだ吐き気がする、って言っていましたから、本調子じゃないでしょう」
<…そうか。……診察は後どのくらいで終る?>
「…艦長、こちらに見えるんですか?」
グレイスは自分がちょっと刺のある言い方をしてしまったことに気付いたが、撤回はしなかった。隣の部屋にテレサがいるのに医務室へ司を見舞うなんて、艦長は少し無神経じゃないか、と感じたのだ。
「先ほどMRIを始めたばかりなので、あと小一時間はかかると思います」
<…そうか>
「司さんは大丈夫ですよ。診察が済んで無理がないようでしたら、第一艦橋へ私が連れて行きます。それより、艦長はテレサさんを見舞ってあげてください。ワープアウトしてからまだ様子を見に行ってないんです」
<……あ…ああ、わかった。じゃあ、…司のことは頼むよ>
「承知しました。任せてください」
ちょっとつっけんどんに、グレイスはそう言って内線を切った。
どうせ報いてやれないのだから、下手に彼女に優しくしないであげて欲しい、…そう思いながら。
司の傷は、飛躍的に回復していた。身体の表面にあった銃創は奇麗に塞がり、内臓の破損もかなり修復されているようだ。音無は一目その傷口を見るなり、もう一度ガミラスへ戻りたい!!と真剣な顔で叫んだほどだ。短時間でここまでの回復を約束するこの医療技術があれば、地球の未来が変わるぞ!!と今も司の枕元でまくしたてている。
そのうち、軍事産業だけでなく医療技術や芸術のためにガミラスへ留学したり交換留学生が行き来するような世の中がくるかもね、とグレイスも苦笑した。
「音無先生って、面白ーい」司は腹部を覆うMRI装置を押さえながら、けたけた笑っていた。めそめそしていたのは本当に一時だけで、彼女はすでに元の屈託の無い航海長に戻っている。
「君のバイタルサンプルを作り替えなくちゃならないな。…いや、むしろ…、ちょっと色々頂いて、研究させてくれないか」
「え〜…?」
「ちょっと!!音無先生、それはダメですよ!!」
グレイスは驚いて会話に割って入る。司の血液には、確かにウォードが使用したガミラス製の人工血漿が含まれているから、血液をとって調べれば色々なことが分かるに違いない。しかし、司の総血液量はまだかなり少ないのだ。
「調べたいのは分かりますけど、まだ彼女、重度の貧血なんですからね?せめてヘモグロビン値が11に上がってからにしてください。まだ無理です!」
音無が色々頂く、と言ったのは、つまり「血を抜く」ということだったと分かって、司はきゃあああ、と笑った。
「……はいはい。じゃあ、バイタルサンプル用に一滴だけね」渋々そう言うと、音無は司の耳たぶから針でほんの少しだけ血を採った。
*
部屋のインターホンが鳴ったことに、テレサはしばらく気がつかなかった。2度目にコール音がして初めて、誰かがドアの外に来ていることに気付く。
「……?」グレイス先生かしら。
ロックをかけた覚えはなかったが、ベッドサイドにある端末から、ドアロックを解除するボタンを探して押してみる。——開いたドアのところに立っている人物を見て、テレサははっと身体を起こした。涙でまだ頬が濡れていたのに気付いて、慌てて両手で頬を拭う。
ほっとしたように表情を和らげた島が、足早にベッドのところまでやって来た。彼は連続ワープの間、彼女が一人で居たことをずっと心配していたのだ。
「テレサ、大丈夫だったかい?」
テレサは無言でベッドの縁に座り直し、軽く微笑んで頷いた。
自分には、この人の温もりしか…縋るものがない。
でも、司の気持ちを知ってしまった今では、それすら後ろめたく思えるのだった。危険な能力を持った自分が、島の思い遣りに甘えることを諌める理性と、それでも抑えきれない慕情とがせめぎ合い、胸が潰れそうになる。
だが、会う度に泣いてばかりでは、島さんだって迷惑に違いない…。そう思い、膝の上で両手をきゅっと握りしめた。
「なかなか来られなくて、ごめんね」
ベッドに座るテレサの隣に、島は腰かけて優しくそう言った。
「…いいえ」
島の広い胸に頬を寄せて、その温かさや心臓の鼓動を感じたかった。彼は他の人たちと同じで、その肌に触れただけでは彼の心がテレサの意識に流れ込んで来ることはない。彼が司をどう思っているのかは、聞いてみなければ分からないことだった。だとしても、どうしてそんなことができるだろう?
「身体は辛くなかったかい?ここから先は、連続ワープで中間補給基地まで進む予定になっているんだ。毎日最低1回か2回はワープを繰り返さなくちゃならないから、大丈夫かなと思ってね…」
「心配しないで」テレサは島を見上げて微笑んだ。「私なら大丈夫です」
微笑むテレサを、島はしげしげと見つめた。
「……目が赤い。…どうしたの…?泣いていた?」
「えっ」
テレサはとっさに頬に手を当てた。
「大丈夫、って言いながら…無理するからなあ、君は」
島は呟きながら、テレサの背中に片腕を回し、彼女を抱き寄せる……。
「…!」目眩がする。テレサは震えた。堪えようと思うのに、瞼が熱くなるのを止められない…。
この…温かい胸を、失いたくない。
優しい声、慈しむような眼差し。
……永遠に、あなたのそばに居たい。
私を愛して下さい、誰よりも、何よりも……!
島は、自分の胸に顔を埋めているテレサの頭を、右手でそっと撫でた。
——泣いている……?
寂しい…というより、彼女は酷く不安そうだった。この涙は、何の涙だろう…?不安なのは理解できる…環境の変化に、気持ちが不安定にもなるだろう。
心配なことがあるのなら、聞き出さないとだめかな。きっと彼女は…自分からは言い出さないに違いないから。
テレサを抱いていた腕を緩め、頬を寄せる。島は優しくその唇に口づけた。
「我慢しなくてもいいよ」
その言葉に、テレサが目を上げる——
島は彼女の頬に手を当てて、囁いた。
「色々あったからね。…哀しくなったら、泣けばいい……寂しい時は寂しい、って…言っていいんだ。もう、…強くあろうとしなくていいんだよ」
「島さん…」
「大丈夫、なんて言うなよ。…どうしたんだ、そんな顔して」
堰を切ったように泣き出したテレサを、島はもう一度抱きしめる。
……寂しい…。あなたと…ずっと一緒にいたい。
どこへも行かないで、誰のところへも…行かないで。
例え…私が反物質の力を持つ殺戮者であっても…
あなたにそばに、居て欲しい……!
そのどれも、言葉にすることはできなかった。だが、まるで聞こえているかのように島は何度か頷いてくれたのだ——ただそれだけで、テレサは救われる思いがした。
強くあろうとしなくてもいい、という島の一言が、暗く時化る心の海に深く安堵の碇を下ろす。司の言ったように、何もかも忘れてしまいたい、とテレサは思った……不安なこと、恐ろしいことをすべて——。
ディーバ1903は、銀河系の外れにあるL-59恒星系の第7番惑星である。銀河系からアンドロメダ方面へ向かう、外宇宙の旅の里程標として、地球から旅立って行く船、また帰って来る船の宿場としては好適な条件の星であった。
月にあたる衛星を3つ持ち、約350日で太陽の周りを公転し21時間で自転を繰り返す。原始の地球によく似た星だが、大気はまだ薄く、海は小さく浅かった。大きな地殻変動は観測されず、火山活動等がほとんどないディーバの地表は、比較的安定していた。
「これより、ディーバ1903の惑星引力圏に入ります。軌道上から速度30宇宙ノットで降下開始」
第一艦橋のメイン操舵席に座っている司が、嬉しそうな声で言った。
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