奇跡  射出(7)




 ——7日目の朝。

(……夕べは…島さん、どうしたのかしら…)
 今朝の中庭には、白い靄がかかっていた。日が昇る前にいつも短時間だけ出る朝靄とは違い、今日のそれはまるで厚い真綿のようだった……ナイフで切って、並べられそうなほどだわ…、とテレサは思った。


 島は毎晩顔を出すか、それが無理でも部屋のモニタにかならず連絡をくれた。それが、昨晩はまったく音沙汰がなかったのだ。
(…きっと、とても忙しいのね…)
 テレサ自身は、島にずっと一緒にいて欲しいと切に望んでいる。けれど、艦長という重責を担っている彼に、そんな我がままは言えない……
(……あの人も、今日も…来ないのかしら…)
 あの人、とは司のことだった。
 この遊歩道は、特にトレーニングのための場所ではない。そう考えたら、司が中庭に現れないのも別に不思議なことではなかった。だが、独りでいた時にはまるで考えもしなかった「孤独感」なるものの存在を、テレサはひしひしと感じるようになっていた。この総統府には、今たくさんの地球人が滞在している。愛しい人も、懐かしい人もいる…それなのに、自分はやはり独りで、彼らの時間が空くのを待つしかないのが寂しかった。

 立ちこめていた霧が、やがて雨に変わった。
 バルコニーに出て外を見ていたテレサは、しとしとと落ちて来る水滴を幾つか掌に受けて微笑んだ。雨の降らない空洞惑星テレザートで生まれた彼女は、天から降るこの水の粒が愛しくて仕方がない。大気汚染のほとんどないこの星の雨は、飲み水にも使われている。気温はそれほど低くなく、暖かい水滴の洗礼を受けて、まだ薄暗い庭の夜光性灌木の枝葉が音を立てて喜んでいるような気がした。テレサはバルコニーの階段を静かに降りて、遊歩道へ出た。
 靴を履いていない彼女は、素足に冷たい水たまりを感じてくすっと笑う。白いドレスの両脇を手で持ち上げ、つま先立って遊歩道を歩き始める。ドレスの裾をつまんだままくるりと身を翻し、天を仰いだ。

(…地球にも、雨は降るのかしら……)青い惑星。あれは、おそらく…深い水の色……


 ドレスの裾をつまんだ右手を見る。中指にはめた、銀色の指輪に雨水が滴り落ちた。この指輪は…そう、制御装置。
「制御…装置」
 ふとそう声に出してしまい、はっと居住いを正す。それは誰にも言ってはならないことなのだ。そう…誰か、大事な人がそう教えてくれたのだった…
 何の制御を…?

 また、唐突に一つ…記憶が甦る。
 私は…テレザートのテレサ。強力なサイコキネシスを持ち…テレポーテーションもできた……。そして、あの…身体の芯に疼きとして残る、目の眩むような厖大な光芒は……。



 雨音が静寂を破る。
 ドレスの裾をたくし上げていた両腕が、だらんと下がった。得体の知れない不安が、胸に渦巻く。思い出そうとすると目眩がする。無理矢理思い出すなと、全身が警告を発しているかのようだった。
 
 テレサは、唇を固く結んで、もう一度天を仰いだ。雨がこの不安を…洗い流してくれたらいいのに……。
 ドレスの裾を再び両手で持ち上げ、テレサは半歩、足を踏み出した。つま先を上げ、そっと降ろす……水たまりを踏むと、水が音を立てて弾けた。そうして何歩か踊るように歩いているうちに、重い気分が少しずつ晴れて来る。


 
 まるで静かなダンスをしているような、その無垢な後ろ姿を、ピンク色の傘を片手に呆気にとられて見つめる者がいた。——司花倫だった。


                     *



 司の両目は、昨晩さめざめと泣き明かしたためにウサギのようだった。洗ってアイロンまでかけて返そうと準備していた島のハンカチは、悔しかったのでベッドの中でまた散々、涙や洟を拭いてしまった。
(このハンカチ、もう返すの止めた。そのくらい,いいよね?私がもらっちゃっても、いいよね……)

 艦長の「ハンカチ」くらい、自分のものにしたかった。…ああ、惨めったらしい。しっとりと湿ってしまったハンカチをぎゅうと握ったまま、司は目を閉じた。

 さて、泣き疲れて眠くなると思ったのに、どうしても眠れない。…そこで、やはりジョギングしよう、と外へ出てみたところ…この天気だったというわけだ。
 走ろうにも、2メートル先すら何も見えないほどすごい霧だったし、別に今日はトレーニングしたい気分でもない。そもそも、テレサの顔なんか見たくもなかった。でも、彼女は自分と島とのことなんかまるで知らない……。それならむしろ、自分のいまだに持っている疑問の幾つかを、素知らぬ振りして彼女に聞いてもいいのではないか、と思えて来たのだ。
 そんなわけで、ウサギの目のまま遊歩道をとぼとぼ歩いて来ると、白いドレスを翻しながら雨の中を踊っている姿に出くわしたのだった。


(…な…何してるんだろ…)
 足元を見れば、テレサは裸足だ。滑るようにステップを踏み、わざと水たまりに踏み込んでは水を蹴立てているように見えた。時折、顔を空に向けて祈るような仕草をしていて、楽しくて踊っているのとはまた何かが違うような気がした。両手で持ち上げているドレスの裾は、多分もうしっとり濡れているだろう。テレザートの宗教的な舞踊…? それにしては規則性がない。いや、むしろ、まるで無邪気な幼児のするようにも見える。しかし、やっていることはともかく、その姿は幻想的で美しかった。霧と水滴はまるで金色の髪に乗った真珠の髪飾り、肌に纏った真珠のネックレスのようだった。彼女がステップを踏む度に、水の上で踊る妖精が蹴立てる光の轍のように…足元から銀色のミルククラウンが舞い上がり、無数に弾ける。

「…あ、あのー」
 一心に踊っているのだとしたら邪魔するのは気が引けたが、待っているのも変だと思い、司はテレサに声をかけた。
「…!!」声にならない叫びを上げて、テレサは立ち止まり、さっとこちらを振り向いた。見る間にその頬が、ぱあっと赤く染まる。
「……司さん!」
「あの、えーと、……おはよう。…何してたの?」
 気まずそうな司の問いに、テレサは真っ赤な頬で俯きながら言った。
「…雨が…、雨が…降っていたので」

 ……雨が降ると、裸足で外を走り回るの…?この人って…
 可笑しくなって、つい口元が引きつれる。
「もしかして、雨が、珍しいの…?」
 テレサは頬を赤らめながらも、少し嬉しそうな顔をして「はい」と頷いた。「私の住んでいたところでは、雨は…降らなかったので…」

 司は、ヤマトのデータベースから掘り出したテレザート星のデータをぼんやりと思い出した。空洞惑星。彼女の故郷テレザート星は、地殻内部に本星のある空洞惑星であった。空高くに外殻地表の岩盤があるために、大気は分断され、雲は発生しにくい。雨も雪も降ることのない乾燥した大地…。地熱で常にほぼ一定の温度・湿度に保たれていたその星に生まれた彼女には、天から降るこの「雨」という代物が、とても珍しいのに違いない……。司は、つい笑みを浮かべた。
「……そうなんだ。…私も、雨…好きだな…」
 テレサさんて。案外天然ボケかもな。
 そう思い、ちょっと笑う……地球人だと言うことにしているはずだろうに、「雨が珍しい」なんて自分から言っちゃうなんて。



 司自身も、雨が好きだった。雨音も、雨粒も、好きだ。それは同時に、兄との数少ない思い出の一つでもあったからだった。

 両親を亡くした和也と花倫の兄妹は養護施設で育ったが、幼い日兄妹はよく雨の中を濡れて歩いた。花倫と和也は、しとしと降る雨も、しのつく雨も、大好きだった。 
 外に出られない日は窓の近くで雨の音を聞く。ふたりで、大好きなぬいぐるみや絵本を寝床に持ち込んで、布団に包まりながらその音に耳をすませたものだった。それはもちろん、ガミラスが遊星爆弾を降らせるようになる、ずっと以前のことである。


「どうでもいいけど、風邪引きますよ…?」
 司は苦笑して、自分の傘の中にテレサを招き入れた。その白いドレスも彼女の金色の髪も、すでにしっとり濡れていたが、ピンク色の傘の中に入った彼女はまるでそんなことは気に留めず、にっこり笑って「ありがとう」と言った。テレサはすらりとして背が高く、自然司は傘を持つ手を自分の頭の上に掲げる格好になる。
「……地球に来れば好きな時に、雨を見られるよ。…艦長の家は、地球の…日本っていう国にあるの。日本は、雨が…とても美しい国なんだよ」
「日本…雨が美しい国……」
 テレサは、地球と聞いて突然何かを思い出したようだった。急に立ち止まり、傘の骨から滴る水滴が足元に落ちるのをじっと見つめた。彼女が動かないので、司も傘を差し掛けたまま、立ち止まる。何か心配事があるのだろうか…。だが、彼女自身もそれをどう説明したものかと戸惑っているようだった。

 司は、テレサと同じように足元に目を落し、ぼそりと話した。「…あたし、偶然なんだけど……極秘のファイルを…見ちゃったんです」
 テレサは傘を差し掛けている司を振り返った。
 ——なにを?

 司は顔を上げなかった。
 テレサを困らせようと思ったわけではない。何か気がかりなことがあって、彼女が笑顔でいられないのは察したが、どうしても聞いてしまわなくては気が済まなかったのだ……
「あなたは、…テレザートの…テレサなんですね。…地球人だって言うのは、嘘なんでしょ?」
 テレサは、瞬きしてじっと司を見つめた。
 司は急に焦りを感じる。…テレサの視線をまともに受ける自信がなくなった。自分を納得させるためだけに、訊いてはならないことを訊いてしまったような気がする。自分は、知ってはいけないことに首を突っ込んでしまったのだ、と今さらながら後悔したが、もう遅かった。
「あの……別に、あたし…誰にも言うつもりは」
 テレサはしばらく黙っていた。便宜上、正体を伏せているだけで、それが公になって困るのは自分ではなく、島たちだ。
「…島さんたちが…困ってしまうかもしれません。…私がテレザートのテレサであることは、伏せておいてください…。あなたが知っているとしても、それは…かまいません」
 司はちょっと驚いて、顔を上げる。
 テレサは哀しげにもう一度問いかけた。「私が、…反物質の力を持つ超能力者だったということは…、知っていますか…?」

「…データベースでは」司は頷き、問われるままに、ポセイドンのマザーコンピュータから引き出した極秘データの情報を思い出しながら答えた。「…あなたは白色彗星の進路を変えてヤマトを逃がすために、自分の星、テレザートを自爆させた…」
 テレサが目を細めて、自分を見ている。驚いているのか、それとも諌めているのか。…警戒しているのか、不安に思っているのか…。それさえも、司にはよくわからなかった。
「…そうです。私には…恐ろしい力がありました…」
 テレサは溜め息を吐くようにそう言うと、司の傘からまたふいに一歩外へ出た。慌てて司もそのあとを追い、傘を差し掛ける。そうしながら、彼女の横顔をちらりと見た……この人ったら、何て哀しそうな顔をしているの…?
「…その極秘データには、…なぜ……私がそうしたのか、記録されていましたか」
 テレサは、また立ち止まり、足元に視線を落す。
「…いいえ。…でも」


 私にはわかる。
 この人がどうして、地球を救おうと決心したのか。


「…データベースには理由については何も記録されていません。でもそれは、……あなたがそうしたのは…、島艦長のため、だったんですよね…?ヤマトを逃がすため…。それはだって、島艦長がヤマトにいたからだし、地球を救ったのも…」
 テレサはそれを聞いて、突然振り向いた。
「……地球を救った…?」驚きの色が、瞳に浮かんでいる。「……ヤマトの方達も、そう言っていました。でも、おかしいの。私には…そんなことをした覚えはないんです」
「えっ……?でも…」
 そんなはずはない。自分は確かに、地球防衛軍のスペリオル・グランマに極秘情報として保管されているデータにアクセスしたのだから。

 

 

 

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