奇跡  射出(6)




 ノックの音に島は顔を上げた。「……どうぞ」
 ロックを解除すると、音もなく開いたドアの前に司が立っていた。
「入りなさい」
 デスクチェアから立ち上がり、島は部屋の中央にあるテーブルの傍へ来るよう、司を手招きする。
 軽く頭を下げ、司はテーブルの方へ歩を進めた。

「…あの」「司」
 二人はほぼ同時に口を開いて、慌てて口をつぐんだ。司が目を上げて苦笑いしたおかげで、お互い、少しだけ気持ちが和らいだような気分になる。
「……司、ドッグファイトの記録、見せてもらったよ。…相変わらず…見事だな」
 司は、そんなことないです、古代艦長に悪いことしたみたいで…と言いかけて、相原の言葉を思い出した。『司は褒めると謝る』って、艦長は言ってたそうだ…

「…ありがとうございます」頬が強張ったが、素直にそう礼を言ってみる。古代艦長にも、第二艦橋の航海班の仲間にも、「自信を持て」って言われているのだから。

 島は何かを思ったようだったが、かすかに微笑みを浮かべ、深く頷いた。

「実は、…お前に話さなければならないことがあるんだ」
 単刀直入に切り出した。これ以上、ぐずぐずしていても仕方がない、と島はそう思ったようだった。
 まるで、助からない病気にかかった事実を宣告されるような気分になって、司はテーブルの上をじっと見据える。
「…どこから話したらいいか、迷うんだが」話し辛そうにキャノピーの外へ視線を投げる彼を視界の隅に捕えながら、司は思った……
(あたしは、もう随分たくさんのことを知ってる…)
 だが、自分の口からそれを打ち明けるのは辛すぎるような気がしたので、島の言葉を黙って待つ。

「……ここで保護されていた人のことを、覚えているかい?昨日、…パーティーで見ただろう」
「…はい」
「あの人は、オーストリア出身の技術者、ということになっているが、…本当はそうじゃないんだ」

 島の言葉に、司は身じろぎもしなかった。滑らかな硬化クリスタル製のテーブルには、窓の外を見る島の顔と、それを見つめる自分の顔が映っている。これから島が、何を話すのか…司には大体予想が付いた。それをじっと聞いているのはやはり、耐えられない……。

「あの、艦長」
「…ん?」
「ええと、…この間のことは、…やっぱり……なかったことにしませんか?」
「え…?」
「あたし、…艦長と付き合うなんて、…やっぱり…無理だなって…、そう思って……」


 島は戸惑い、司の方に向き直った。<バスカビル>で、確かに自分の抱擁に応え、彼女は「嬉しい」と泣いたはずだった。その後交わした口付けも、忘れてはいないはずだ……
「あたし、どうかしてたんです。…ほら、次元断層なんて普通じゃない場所通って来た後だったし、<きりしま>があんな風になって見つかったし……気が動転してて。…つい、艦長に、甘えちゃいました…」
 顔を真っ赤にして俯いたまま、無理矢理口元だけを笑った形に歪めながら、司は続けた。「だから、…もうあれから恥ずかしくって、どうしていいかわかんなくて……。あたし、とんでもないことしちゃったなあ、って……。だから、もう…無しにしませんか……?」
「司…?」
 島が自分の顔を覗き込むように腰を屈めて近づいて来たので、司は思わず後ずさる。この期に及んで、もう島の顔をまともに見る事などできなかった。
「司…、なんで」
「兄の船のことは、ほんと、感謝してます!<バスカビル>で、慰めてくれたことも。艦長がいてくれなかったら、あたし、立ち直れなかった、本当にそう思います、でも、…それだけなんです…」
 ちらりと目を上げて見ると、島は、信じられない…といった顔をしていた。「ちょっと待てよ」
「いいんです。もう、いい…。あたし、艦長が悩む顔、見たくないんです」司はそう言って笑い、ぱっとお辞儀をした。…身を翻す、出口に向かって。
「待てよ…!」
 島が、司の手首を驚くほどの力で掴まえた。
(もうヤだ……!!お願いだから、もうかまわないで……!!)

 艦長室のドアに向かった途端、涙が溢れて来たので、振り向くことはできない、と司は心に決めた。離してください、と言いたかったが、声を出せば涙声になっているのを悟られてしまう。無言で彼女は、後ろ手に掴まれた手首を振りほどこうとした。
「……何か、聞いたんだね」島は、背を向けたまま小さな獣のように身体を捻って自分から離れようとする司を、仕方なく自由にした。「誰に、何を…聞いた?…」
「何も」
どうにか泣き声を出さずにそれだけ答える。鼻の頭に、目頭から涙が伝ってこぼれて来た。
「…だったらなぜ泣くんだ…?」

 ——ちぇ。泣いている、って…分かっちゃった…

 自分がテレサに会って知ったこと、それに加えて相原から聞いた話……断片的な情報から勝手に自分が知ったことなのだから、誰にもなんの落ち度もないのだ。
「俺が…司、お前を好きだと言った時の気持ちは、嘘じゃない…。それは信じて欲しいんだ」
 司は大きく息を吸い込むと、勢いよく上を向いた。けれど、どうやっても涙は出て来てしまい、とめどなく目尻からぽろぽろとこぼれ落ちる。
「……嘘だなんて、思ってません。私は、誰からも、何も聞いてない。誰も、嘘なんか吐いていないし、誰も…悪くない…」いつの間にか、自分に言い聞かせるような口調になる。「あたし、…たまたま分かっちゃったんです。朝、…外を走ってて、…偶然あの人に会いました。何度か会っているうちに、あの人が地球人なんかじゃないって……わかったんです…。あの人は、…テレザートのテレサで、艦長の…死んだはずの恋人だったんですよね…?」
 島が背後で息を飲むのが分かった。司は必死で涙を堪えたが、その努力はほとんど無駄だった。
 テレサが生きていて、良かったですね。
 ……その一言は、思っていてもどうしても言えなかった。

「それから」洟をすすって、付け加える。「…艦長、ヤマトに私を行かせたでしょう?…相原さんって人に会ったんです。…あの人、多分…勘違いしてたんだと思うんですけど…。色々、話してくれました…」
「何だって」
「相原さん、私が…艦長から全部聞いてるんだと思ったみたいなんです。だから、あの人を責めないであげてくださいよね」
 ごしごしと顔をこする。ああ、いっつも私って、必要な時にハンカチ持ってないんだよなあ……。なんだか、笑いがこみ上げて来た。あの相原が、艦長にどつかれている姿が目に浮かんだからだ。こんな事態なのに、一体私、どうしちゃったんだろ……。やっぱり、悲劇のヒロインになんか、なりきれないや…。
 涙でくちゃくちゃの顔とは裏腹に、心の中は妙に冷静に事態を俯瞰している自分がいることに、司は少し、驚いた。
「私…、艦長の困った顔なんか、見たくないです…だから、<バスカビル>でのことは、……なかったことにしてください。…あの人を……幸せにしてあげて」
 涙を手の甲で全部拭ったと判断し、司は笑って島の方へ向き直った。
 だが驚いたことに、島の方こそ今にも泣き出しそうな顔をしていたのだ。

「どうして…そんなことを……」
 震える声でそう言うと、島は突然両手を広げて司の両肩を抱こうとした。だが、司はその腕を必死で押しとどめ、きっぱりと拒んだ。
「艦長」だめですよ、と無理矢理笑顔を作る——
「…あたしは、艦長の傍にいます。艦長のために、最高の部下になります…だから…、もう……」

 ——だから……もう、そんなに哀しそうな顔、しないで……。

 司は、ゆっくり島のそばから離れると、さっと敬礼した。
「…司航海長、任務に…戻ります」
 短く告げると踵を返し、司は艦長室のオートドアを足早に抜け、節電されて動かないベルトウエイへと走り出た。島は、それきり追ってはこなかった。




(…司……どうして)
 島は司が初めてトライデントプロジェクトのキャンプで志村ともめた時のことを思い出した。あれも早朝の出来事で、なぜ彼女が早朝にそこにいたか、と言えばそれはただ、彼女が毎朝、ジョギングをする習慣を持っていたから…だった。そう言えば、テレサの部屋は中庭に面したグラウンドフロアにある……

 それは多分、本当に偶然だったのだろう。彼女がテレサと、何を話したのかはわからない……愛想のいい司なら、人見知りするはずのテレサともすぐに打ち解けてしまうのかもしれなかった。…テレサの身の上については、相原が話したのならもうすっかり知っているのかもしれない。
 今さら、相原をとっちめるつもりはなかった。ヤマトに行かせたのは、他ならぬ自分だったからだ。

『…あの人を、幸せにしてあげて』

 司はそう言った。それは、自分にとってもずっと願っていたことではあったし、そうすべきだとも思う…だが、それを司の口から聞かされるとは…。
 自分はテレサを心の底から愛していると信じていたが、たった今、島はその自分の気持ちが揺らいでいるのを否定できないことに気がついた。司を追って、艦長室から飛び出して行きたいと思うもう一人の自分がいる……。
 心を決めて、司に「なかったことにしよう」と言うのはこの自分であるはずだったのに、彼女の方からそう言われ、島は完全に狼狽えてしまった。失いたくない、と感じた自分の心をまるで見透かすように、司はこうも言ったのだ…「艦長の傍にいます、最高の部下になります…」と。


「…司…」
 テーブルの縁を掴んだ両手に力がこもる。そのままうなだれて、島は、司の名前を口にした…


「……花倫」

 

 

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