5日目の朝——
テレサは、あまりよく眠ることができず、まだ暗いうちに窓辺に出て外を見ていた。
すぐそばに、いつでも島さんがいる。それは信じられないほど素晴らしい事実だった。昨晩も、パーティーの後に彼は部屋まで自分を送り届けてくれた。
唇に、そっと触れてみる。
昨晩、彼が別れ際に、それまでしたことのないような深いキスをしてきたのでテレサは狼狽えた…それは、まるで身体の芯が蕩けそうな感覚だった。
「テレサ……」
君は必ず、僕たちが守る。一緒に…地球へ行こうな。
……はい。一緒に——
呟いたテレサの唇が塞がれ、深く愛撫される……
僕にとって…君は奇跡だ。奇跡は…本当に起きるんだ……
窓辺で昨晩のことを思い出したテレサは頬を染めた。指先で、もう一度唇をなでてみる。島の口付け、島の力強い腕が自分を抱きしめる感覚。記憶にあるよりもさらに逞しく、広くて温かな胸。7年も経っているからか、彼の顔つきもずっと精悍に、男らしく変わっていた。ふと自分はどうなのだろうと思い、慌てて部屋の鏡台に戻って鏡を見てみる。
光り輝くようだった髪や肌は、幾分その艶を失っていたし、身体は多分、かなり痩せてしまっていた。食べ物に気を配ったり、睡眠時間に気をつけたりしなくては傷ついた身体は治らないのだ。自分のため、というより、島のために、生まれて初めてテレサは自分の健康状態に気を配ろう、と思った。
にもかかわらず。眠れないでいるうちに夜が明けて来た。夜光性の低木の葉が、ハープのようなかすかな音を立てて、やってくる誰かの足音を教えてくれる。
(…ああ、あの人ね…)
パーティー会場で、あの人…司さんは嬉しそうに手を振ってくれた。なんだか、不思議…。とても気さくで、可愛らしい人。あんな素敵な人と、私が友達になれたなんて、なんだか……夢のよう…。
テレサは思い出し、微笑みながら窓辺からバルコニーへと降りて行った。
「おっはようございまーす!」
元気よく、しかしヒソヒソ声で、司はテレサに挨拶した。なにしろまだ起床時間前なのだ。
「…おはようございます、司さん」テレサはにっこり会釈した。
司は、今朝のテレサはなんだかとても奇麗だと思った。そりゃあそうだ。地球へ帰れると分かったのだもの。
そばへ駆け寄って、テレサの手を取り、思い切り握りしめ上下に振る。
「トリニティさん、っていう名前だったんですね。一緒に戻れることになって、ホント良かった!!家族の人とか、喜ぶでしょうね…!!」
テレサは一瞬、彼女が何を言っているのか分からず面食らったが、すぐに思い出した。私はテレサ・トリニティという地球の技術者、ということになっていたのだわ。
「…ありがとう。でも、…私の家族はみんな、死んでしまって…もういないの」
「えっ……あ、そうだったんだ…。ご、ごめんなさい…」
「いいえ、いいんです」
本物の<トリニティさん>のことは知らなかった。だが、テレサにとっては家族も友達も、故郷すら…もう存在しない。それを思い出すと胸が痛むが、島の存在がその痛みを緩和してくれる。
「実はあたしも、家族も親戚もだーれもいないんです。みんな、戦争で…。あたしたち、おんなじだね」司はそう言って、舌をペロっと出した。
「まあ…」ふふふ、とテレサも笑う。
「そうだわ…あなたの言っていた、ツカサ・カズヤさんのことだけれど…」
テレサはそれを忘れてはいなかった。副総統のタランが調べてくれた所によると、現在戦闘状態にある小国ボラーの通信を傍受すると必ずと言っていいほど『ツカサ』という言葉が出て来るのだという。ボラー星系言語には単語としてのその言葉はないため、おそらくは何らかの暗号かコードネーム、もしくはまた別の星の言語だろうというのだが、まだその解析には至っていないということだった。
「暗号……」司は呟いて黙り込んだ。自分の名前は、日本ではごくありふれた名字だが、外国だったら意味の分からない暗号かもしれない…それと似たようなものなのかな。
だが、それが兄の和也と何か関係があるとは考えにくかった。
「宇宙港にある観測センターに行けば、傍受した通信記録がまだ幾つかあるそうです。直接調べてみることもできるようですよ。副総統が許可をとってくれました。でも…あまりお役に立てなくて、すみません」テレサは申し訳なさそうに言ったが、司は首を振って笑顔を見せた。
「ううん、大丈夫、気にしないで。観測センターね?私、自分で行って調べてみます。ありがとう!!……それより、テレサさんが地球に帰れることの方が、よっぽど素晴らしいわ!…私も、嬉しいです、だって…私の兄のことも、まだ諦めないでもいいんじゃないか、って思えるから」
「…そうね。…奇跡は…本当に起きることがあるのですもの…」
彼が言った言葉。
——奇跡は、本当に起きるんだ——
島はテレサを抱きしめながら、しみじみとそう言ったのだ。テレサ自身もこの宇宙に人知を越えた奇跡が起こることを、島の胸の中で感じた。
「…ね…今、なんて……?」
「え?」
「…奇跡は、本当に起きる、って…、今」
司がなんだか真剣な表情でそう訊いた。
テレサは恥ずかしそうに笑う。
「私の…愛する人が、そう言ってくれたのです。…私は…家族も故郷もなくしましたが、彼がここまで迎えに来てくれたので、もう…哀しいとは思いません。あの人は、ずっと私を忘れずにいてくれた…彼の言う通り、奇跡は…本当に起きることがある。……私たちは、再び会うことが出来たのですもの…」
「…彼?」
テレサはまた恥ずかしそうに口元に手をやったが、微笑みながら頷いた。
「ええ……あなた方の船で、来ている人です」
司の頭の中で、テレサの一言が駆け巡った。
(…偶然だよね……? それともあれは…本に出て来るフレーズか何かなの?)
『奇跡は本当に起きることがある…』
兄の生存を諦めなくてもいいと——、
……冥王星付近で、
一緒に朝食を食べながら。
——そう言ってくれたのは、島だった。
記憶が目まぐるしく脳裏を駆け巡る。
島の弟、次郎が自分に向かって言った名前は、「テレサ」。
その時に着ていた、青いドレス。…自分と似た、髪の色。
「愛する人を亡くした」と言った島の言葉……、それは、7年前。
この人が行方不明になったのも、7年前。
そして、さっきの一言………『奇跡は本当に起きることがある』…
まさか。…まさかね……?
「…どうかしましたか?」
何か言いたそうに口を開いては閉じている司を見て、心配そうにテレサが尋ねた。司は少し青ざめているようにも見える。
「……島艦長の…死んだはずの恋人って……まさか、あなた…」
テレサは目を丸くした。
「どうしてそれを」
司は見えないハンマーで頭を殴られたように感じた。テレサが地球へ帰れることも、奇跡的に救助されたことも、何もかも。…祝福したい気持ちは一瞬で消し飛んでしまった。
「いえ、なんでも…」かろうじて愛想笑いをしながら、司は一歩後ずさりした。「…そろそろ、行かなくちゃ。…あの、…情報を…ありがとうございました…」
「あの、司さん」テレサは慌てて司を呼び止めた。「私と、島さんとのことは、…内緒にしてくださいませんか?」
司は、頬を染めてそう懇願するテレサを改めて見つめる。
奇麗な人。……このガミラスで、7年も…ずっと艦長を待っていた……奇跡を信じて。
——この人は、何も知らない。
急に、もう一つの真実に気がつく。
(…艦長も、ここにこの人が居たなんて、知らなかった……?)
<バスカビル>で、自分を抱きしめて泣いた島。
あの時は、艦長だって……この人が生きているってことを、知らなかったんだ……
いつ?
いつ、この人がここで生きていると…艦長は知ったの?
「…わかりました」
司はこくりと頷いた。会釈して、テレサの横を通り抜け、やおら走り出す。その後ろ姿を、テレサは少し不安げに見送った。
ちょっと…やだ。そんな。…待ってよ…
確かめた訳じゃない。はっきり艦長から聞いた訳じゃないもの。
でも……そうだったとしても…島艦長は、悪くない…
「好きだって言ったくせに」なんて、どうして言える…?!
あの人も、悪くない……ずっとここで、待っていただけだもの…!
(でも、じゃあ、…あたしは……?)
夜が明けてきた。ゆっくり白んで来る周囲の景色。夜光性灌木の葉が、夜に別れを告げる最後の輝きを見せながら、その間を走り抜ける司に向かって一斉になびいた。
島は、その日も山積した作業に忙殺されていた。滞在も,今日で5日目である。テレサの件でも、古代や真田と打ち合わせなくてはならないことが山とあったが、そのためにどうしても先延ばしにはできない問題がひとつ…、残っていた。
(…あいつが第2艦橋にいることは…わかっているんだが…)
どうしたら、司と二人で話す時間が取れるだろう。
自分が取るべき態度は、決まっていた。司本人に話した通り、テレサを愛する気持ちは変わらなかった…だが、彼女が偶像などではなく現実に戻って来た今……司に対して自分の態度をはっきりさせる必要があった。それが自分の責任なのだ。
(だけど……なんて説明したらいい……)
事情はどうであれ、俺は…あいつを傷つけることになる。そんなことであいつの才能を潰すくらいなら、いっそ…何も知らせずにおいた方がいいのかもしれない。
(いや…それは…卑怯だよな…)
いずれ真実は、かならず告げなくてはならなくなる。
はあ…と溜め息をまた一つ、吐いた。
——そして、総統府の資料庫から戻って来た真田から、重大な真実が知らされたのだ。
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