「…アレス、と呼んでくれないか」
「……アレス…」
請われるままにテレサがその名を呼ぶと、アレスはひどく嬉しそうに顔をほころばせた。テレサは、彼に抱かれて寝室に入るまで…そして二人、ベッドに横たわってもなお、彼の瞳をずっと見つめ続けた。視線を離してしまったら、気持ちが揺らいでしまいそうだったからだ。
こんなにも自分を愛してくれる人に、私はこれまで出会ったことがあっただろうか。自分の故郷を滅ぼした女のために…命を賭けた反逆行為も厭わないほど。彼は、私を…幸せにしてくれる。…まるで呪文のように、テレサは心の中でそう繰り返す。
「……テレサ」
アレスが自分の名を呼び、その髪が額をかすめる。口付けの記憶さえ、テレサには…たった一度しかなかった。温かな唇の感触は、ほんの数秒…、だったはずだった——あの碧の宮殿での…淡い記憶。
「……!!」
淡雪のような口付けの記憶が唐突に甦る。だが同時に、その口付けが唇から首筋、肩へと降りて行く違和感に、テレサは硬直した。
プルシアンブルーの絵の具を流したような…暗い碧が室内に満ちていた。窓の外に揺れる夜光植物の放つ灯りは、この寝室には届かない。
視界の隅に映る、漆黒の髪は……「彼」ではなかった。
たったそれだけの事実に、テレサの瞳からは大粒の涙が一つ、こぼれ落ちる——
アレスは顔を上げた。テレサは宙を見つめて泣いていた。しゃくり上げるでもなく、うつろに開いた両の眼からただ涙だけをこぼすその様子は、彼女がまだ意識を取り戻す前の痛々しい姿と重なる……そうしてあの時<ドール>はこう呟いたのだ。
「…島さん……」と。
アレスは数秒、テレサを見つめ……そして、身体を起こした。以前、<ドール>にそうしたように、指でその涙を拭う。そしてもう一度覆い被さり、今度は強く抱きしめた。
——畜生…!
(愛してくれなくてもかまわない……私は彼女に、そう言ったじゃないか…!)
小刻みに震える華奢な身体を腕に抱き、…だが、アレスは呟いた。
「………すまなかった……」
アレスがそっと部屋を出て行ってしばらくするまで、テレサは身動きができなかった。彼が丁寧にかけて行ってくれた毛布の下から、ぎこちない動作で手を出し…その縁を強く握りしめ、自分を呪う。
(謝らなくてはならないのは……私なのに…)
ヤマトは今、ガミラスに向かっている。82万光年の隔たりの故に、テレサが島に逢うことを諦める必要はないはずだった。自分がそれを隠していることは、自ずと彼女に知られるだろう。アレスは唇を噛んだ……彼女は私をなじるだろうか。それとも、…島を諦め、私を受け入れてくれるのだろうか。
食卓のあるリビングに戻り、アレスはワイングラスに半分ほど残った液体をぐいと飲み干した。記憶を封じたり、異なるものとすり替えたりするのは容易いことだ。あれほど凄まじい能力…反物質を呼び出すサイコキネシスを封じることすら、私には可能なのだから。彼女から島大介の記憶をすっかり取り去ることも…もちろん、不可能ではない。だができればそんなことをせずに、彼女自身から愛されたかった。
(だが…そんな悠長に構えていれば、…ヤマトが来てしまうぞ)
焦燥と深謀とがせめぎあう。
実際、島は…今、生きているのだろうか。
ヤマトを駆って、ここへ…向かっているのだろうか。
…早急に、そのことも調べなければなるまい……
だが冷静に彼女のためを思えば、無理矢理にでもこの星に留まらせるほうがいい。ここに居れば、私の技術で反物質の力を半永久的に封じることができる。総統のゲストとして、私の家での何不自由ない暮らしを約束してやれる。この星を離れたら、私無くしては彼女の力を封じておくことはおそらくできまい。
…島は、再び彼女を不幸な破壊の神にしてしまうだけではないか。
(私の方が…いや私こそが、彼女を真に幸福にできる)
——そうとも、彼女に…一生、愛されないとしても。
テレサは暗闇の中、ベッドに横たわり悄然として天井を見つめていた。
(……寂しい……)
アレスを拒絶したのは自分自身なのに、なぜそんな風に思うことが出来るのか。…自分が理解できなかった。打ちのめされたような顔で部屋から出て行ったアレスを、呼び止めることさえできなかったのに。
「すまなかった」と彼は、謝っていた……私は、彼に何も応えることができなかった。
あのまま、彼の愛情に報いるためだけに抱かれた方が良かったのだろうか…いや、そんなことはアレスだって望んではいない。
それでも無性に寂しくて、テレサはベッドの中で小さく身体を丸め、自分の肩を抱きしめた。
……島さん………
私は、本当は……どうしたいのだろう……?
アレスと自分がこの大邸宅で暮らす光景は、容易に想像できた。このガミラスでは異星人として孤独に暮らすアレスだが、総統のデスラーに生活を保障され、誰にも干渉されることなく、二人静かに暮らす日々が目の前にある。——それは心安らぐイメージだった。
一方島との恋に思い出すのは、対照的なイメージ……激しい炎に身を焦がすような思い。強く愛され、激しく求められた…、その思いに答えるために私は、命を投げ出した。安らかに日々を送ることとは、…およそ、無縁の恋だった。一体私はどうして、たった数十分の間にあんなにも彼を愛してしまったのだろう?
できることならせめて、島が今、どうしているのかだけでも知りたい、とテレサは思った。
あれから、7年も経っているのだ。自分のことを覚えていてくれなくてもいい。誰か他の女性と幸せになってくれているのであれば、それでもかまわない。
(島さんが、生きて、幸せでいてくれるのなら…。私はもう、それ以上は望まない……望めない)
はっきりと、そう決めた途端。
テレサの目から大粒の涙がまた、一筋こぼれた。
彼の安否を知りたい…。それ以上は、もう望まない。
…それで島のことは…忘れよう、テレサはそう自分に言い聞かせた。
*
「デスラー……あなたに…お願いがあります」
テレサから直に連絡を受け、デスラーはほんの少し驚いていた。
パレスへのアクセスコードは記録を一切許されない。ウォードが連絡を取るにも、通信用コードナンバーは彼の頭の中にしかないはずだった。にも関わらず彼女は、ウォードを通さずに官邸へアクセスしてきた。つまり、ウォードが端末に入力していた必要なパスワードを幾つも、そばで見ていただけで覚えていたということだろう。
「…いかがいたしましたかな、直々に連絡を下さるとは…」デスラーはモニターに映るテレサに会釈した。彼女の背後に映るウォードの館には特に変わった点はない。ウォード自身は今総統府の医局にいるのだろう。
「……デスラー総統、あなたには…なんとお礼を申し上げて良いかわかりません。私は何もあなたのお役には立てませんでしたが…本当によくして頂いて、心から感謝しています」
デスラーはかぶりを振った。「いや、礼には及ばない。ウォードの邸で何か不自由がありますかな?」
「いいえ…。ウォード先生はとても良くしてくださいます。私はあの方にも感謝しています……あの、実は」
「…どうしましたかな?」
テレサは何か、自分に頼み事をしようとしている。用件によってはそれが例の能力を復活させることにつながるやもしれぬ、とデスラーは慎重に彼女の言葉に耳を傾けた。
「…あの…」テレサはとても言いにくそうにしていたが、意を決したように話し出した。「……あなたは、今でも地球と交信することがありますか」
「…?もちろんですとも、テレサ」
テレサの顔が、心なしか明るくなった。
「…では、……ヤマトとも……連絡を取れるのでしょうか」
「お望みとあれば、今すぐにでも………と言いたい所なのだが、今は…残念だが通信がうまくつながらない状況でね」
少し前に、まだ彼女が総統府にいた頃、デスラーは幾度かヤマトの名を出して彼女と話をした。だが、その時には一体彼女とヤマトとの間に何があったのか、それを知る術が無く、どう質問を投げかけたものかも分からなかった。それが、テレサの方からヤマトと連絡を取りたいと言って来るとは?…ウォードの奴は、何をしていたのだろう?
デスラーは、テレサの映るモニタの斜め右上にある医局のモニタにさっと目を走らせた。執務室でもある総統の間(ま)には、壁一面に監視カメラのモニタが設えてあるのだ。……ウォードはどこにいる?すぐには彼を見つけることは出来なかった。目付役のはずのウォードからこの連絡が来なかったことに軽く苛立ちを覚えつつ、デスラーはテレサの話の続きを促した。
「……しかしヤマトはおそらく、このガルマン星に向かって現在航行中だ。もうしばらくすれば、彼らに直接会うことができるだろう。……ウォードから、その話は聞いていないのかね?」
テレサは、驚きのあまり絶句していた。
「……いいえ…?」
「ふむ…。して、ヤマトに連絡をとって、どうしようというのだ?」
「それは…あの」テレサは困ったように言い淀んだが、すぐに続けた。「ある方の、安否を知りたくて」
「…誰の安否を?」
「……島さん、という方です」
「シマ…?ああ…、操縦士の彼だね」
ヤマト、というと古代しか頭に浮かばないデスラーだったが、常に第一艦橋にいるメンバーのことは覚えていた。
「ヤマトが地球から出発したという報告はあったのだが、乗組員の編成までは直に彼らと連絡がつくまではわかりませんな。……今、彼らの安全のために、私の親衛隊一個師団を迎えにやらせている。彼らと接触でき次第、あなたに報告させよう。いましばらく、お待ちいただけるかな?」
「…分かりました。ありがとう、デスラー総統」
テレサは会釈すると通信を切った。
そばで見ていたタランが、やはり怪訝そうに言った。
「総統、ウォードめはヤマトのことを彼女に話していないようですな」
「…うむ。彼らがここへ到着するまで彼女を刺激しない方がいいと判断したのかもしれんが」
「…職務怠慢でしたら、厳重に注意いたしますが…」
「まあ良い。…ヴァンダールの艦隊はそろそろ彼らと合流する頃だろう?」
「は…、太陽系の外周、冥王星付近に、明日には到達するとの連絡がありました」
「うむ…。彼らと接触でき次第、島について報告するようヴァンダールに伝えろ。…いましばらく、様子を見ようではないか」
デスラーは思案顔で椅子の背もたれに深く寄り掛かる。
…島、か。だが、なぜ…島なのだ?
思ってもいなかった。これには、一体どんな意味がある…?
テレサは胸の動悸を抑えようと、リビングのソファに深く腰掛け深呼吸した。何がなんだかわからなかった。
……ヤマトは今、この星へ向かって航行中——
デスラーは確かにそう言っていた。それがなぜなのかは聞き忘れたが、大事なのはヤマトがここへ、地球から82万光年離れたこの星へ来ようとしているということだ。
テレサは天を仰いで「ああ」と溜め息をついた。震える胸を両手で抑える……強く両手で押さえていないと、想いが溢れ出してありったけこぼれてしまいそうだった。
ヤマトが……来る。
最初は、テレザリアムのレーダーに映る小さな光点が、彼そのものだった。彗星帝国の謀略に翻弄され、宇宙を彷徨う彼らを…テレサはずっと導き続けた。サイコパワーでモニタへ投影されたその画像、テレザートの地表から仰いだその大きな船体。ヤマトは……島さんそのものだった。彼があの勇敢な船をその手で操っていることを、なぜか自分も、誇らしいと感じた。さようならも言わずに去った私の気持ちを、彼がやはり察してくれたのだと分かったのは、…ヤマトがあの大きなメインエンジンを噴射し、礼砲と共に去って行ったのを見たからだった。聡明で…優しい人。あんなにも淀みなく、私の愛を…理解してくれたたった一人の人——。
自分でもそうとは気付かぬうちに、テレサの記憶は、急激に甦っていった。
体温が上昇し、頬が火照る……だが、突然テレサは気付いた。
(なぜこのことを、ウォード先生は教えてくださらなかったのかしら…)
急に、現実に引き戻される。
総統の口ぶりからすると、彼はヤマトがここへ来ることを知っていたはずだ。
彼女はアレスをすっかり信用し切っていたから、まさか彼が故意にそのことを隠していたのだとは微塵も疑わなかった。「なぜ?」という思いだけが渦巻いて、それが彼女を、アレスに会いたい、という気持ちにさせた。
テレサは立ち上がって、彼と連絡を取る方法を知っているチーフアンドロイドを探した。
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